イスラエル政府より「異邦人の義人」という名誉ある称号を与えられた日本人が一人います。国の政策に逆らって、通過査証を発行し、一万人のユダヤ人の命を救った杉原千畝です。時は1940年の夏、ドイツの占領下のポーランドから大勢のユダヤ人がリトアニアに逃亡して、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしました。しかし、ドイツと同じ反ユダヤ人的政策を取っていたソ連がリトアニアを併合し、リトアニアにある各国の領事館・大使館の閉鎖を求めました。そのために、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館にアメリカ合衆国への通過ビザを求めて殺到しました。当時、日本領事館領事代理を務めていた杉原は、ユダヤ人の実に危険が及んでいることを認識して、日本の外務省に緊急のビザ発給許可を要請しますが、ドイツとの同盟関係にあり、ドイツからユダヤ人に対する迫害政策に協力することを求められていた日本政府は、「難民へのビザ発給は許可できない」と通告します。こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年7月25日、杉原は日本通過ビザの発給を決断。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、ベルリンへ旅立つ9月5日まで、およそ1カ月余り、ビザを書き続けました。その作業は、ベルリン行き列車の出発寸前まで駅のホームで続けられたとされています。その間発行されたビザの枚数は、番号が付されているものだけでも2139枚。また、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのを止めてしまったと言われています。そのため、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザが発給されたと推測されます。また、一家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも1万人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされます。
戦後、ソ連の収容所から帰国を果たした杉原は、1947年に外務省の辞職に追い込まれます。政府の公式見解として、杉原自身による依頼退職だったといことになっていますが、いずれにしても、杉原の取った行動や日本政府の対応に関して、解明されていないなぞがあります。その一つは、ビザの発給を禁止しながら、日本の政府は何故、杉原のビザの有効性を認めて、ユダヤ人の入国、及び、通過を認めたかということです。もう一つの謎は、杉原のユダヤ人を救う動機は何であったか、ということです。杉原自身は、自分の行動について、次のように述べています。
「私のしたことは、外交官としては間違っていたかも知れないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった」
このような正義感、また隣人愛は、どこから来たのでしょうか。杉原が正教会で洗礼を受けていることに、一つの大きなヒントがあるかも知れません。聖書のみことばにふれて、動かされたのではないでしょうか。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。
私たちは杉原千畝のような偉大な功績を残すことは無理でしょうが、困っている人々のために何かができるはずです。彼らは、あなたの犠牲的な愛を待っています。