「永遠と復活」に対する反証 (ウィリアム・ウッド)

はじめに

昨年の12月に、大川従道牧師が書かれた「永遠と復活」が出版されました。この本に対する問い合わせが多数、私のところに来ているので、私の感想を書かせていただくことにしました。少しでも多くの方の参考になれれば幸いです。

なお、この文章を動画にしたものを YouTube でも公開しています。

「永遠と復活」が書かれた背景

御存じの方も多いかと思いますが、大川師は、日本で一番大きいプロテスタント教会(大和カルバリーチャペル)の牧師をしておられます。私も30数年前から交わりを持たせていただいていますが、昨年の12月に、大川師は『永遠と復活』という本を出しました。「自分の牧師人生をかけてこの本を残すために原稿を書いた」とおっしゃっているし、同胞の救いを願う熱い思いが伝わって来ます。本を書くきっかけとなったのは、2020年7月に報道された三浦春馬さんという著名な若手俳優の自殺です。

実は、三浦さんは二年前に、大和カルバリーチャペルを訪れて、約一時間半にわたり、大川牧師と聖書について話し合ったそうです。彼が出演することになっていた『罪と罰』という舞台の役作りのためです。大川牧師に対して、「命」と「死」と、「復活」について真剣な眼差しで質問をぶつけ、納得した様子で、帰って行かれたということですが、色々、悩み事があったのでしょう。その一年半後に、自ら命を断ってしまったのです。三浦さんの自殺の報道を聞いた時に、大川師はショックのあまり、しばらく眠ることができなかったそうです。また、三浦さんを信仰の決心まで導くことができなかったということで、かなり自責の念にかられたということですが、その後、講壇から、「三浦春馬さんはきっとハデスで悔い改めて、イエス様を信じるようになるはずです。あんな良い青年が滅びるはずがありません。彼の救いのために祈りましょう」と語るようになった、というのです。

セカンドチャンス論に至る大川師の背景

一般的に、このような教理は、セカンドチャンス論と呼ばれています。人が生きている間にイエス・キリストを信じなくても、死後に悔い改めの機会が与えられるとする教理ですが、「この地上でイエス様と出会うことがなくても、どんな死に方をしても、死後そのまますぐに地獄に行く人はいない」というメッセージを、今後、「人生をかけて伝えなければならない」と大川師は述べています。結局、三浦春馬さんとの出会いが本を書くきっかけとなりましたが、前からこの問題と葛藤しておられたようです。つまり、長年、「イエス様を信じることなく、罪が消されないまま死んで行った人は皆、地獄へ行く」というキリスト教会の本来の教理に納得できず、そのように人々に伝えることを躊躇した、ということです。

キリスト教国と呼ばれる欧米のように、大昔から、何らかの形でイエス・キリストのことを知る機会が等しく与えられている国と違って、一度も福音を聞かずに死んで行った日本人の数は、100パーセントに近い。ということは、御先祖のほぼすべてが地獄にいる民族だ、ということになるのではないか。そんなことはあり得ない。思い悩んだ末、このような結論にたどり着いた大川師は、「私の先祖たちはキリストを信じる機会がなかったけれども、どうなったのでしょうか」という信徒の質問に対して、「残念ですが、地獄へ行っています」ということが言えなくなったそうです。牧師として、そのような愛のないことを言って、人に辛い思いをさせることなど、とてもできない、ということです。

また、本の79ページに、ある少年の写真を載せています。長崎に原爆が落とされた後、焼け野原に直立不動で立つ、その少年は、既に息を引き取ったであろう幼い弟を背負っています。大川師は、「この少年も弟も、キリストを知らなかったでしょう」と述べた後、「彼らは地獄へ行くのでしょうか」と読者に訴えかけています。そして最後に、こうおっしゃっています。「キリストを知る機会さえなく、死んでいった魂を容赦なく地獄へ投げ捨てる方、それが、私が70年も命を捧げてきた神であるはずがない」と断言されています。

神学問題を論じるときの姿勢

私もイエス様に出会って50年、宣教師として来日して45年になりますが、大川師の心の葛藤を全く理解できない者ではありません。私も日本全国の教会を周って、礼拝メッセージをしたり、カルト問題に関する講演をしたりする中で、何度も、亡くなった先祖に関する質問を受けて来ました。質問者の気持ちに配慮して、傷つけないように聖書から誠実に答えたつもりですが、いつも、「難しい問題だな」と痛感しています。大川師と同様に、一人でも多くの日本人の救いを切に祈っています。また、過去において、福音を聞く機会のなかった方がいるなら、その方にセカンドチャンスが与えられることを信じたい気持ちは持っています。

しかし、この極めて重要な神学問題について考える時に、感情論に突っ走ってはいけないと思います。あくまでも、聖書に基づいて冷静に、かつ慎重に判断することが必要です。なぜなら、もしセカンドチャンスがなかったとしたら、その教理を語ることによって無数の魂を滅びに追いやることになるからです。つまり、「この地上でキリストを信じなくても、ハデスで悔い改める機会が与えられる」というメッセージを伝える時に、必ず、「じゃ、私は死んでから信じよう。それまで自分の好きなように生きよう」と考える人が出て来ます。もしセカンドチャンス論が非聖書的な教えで、神のみこころに反するものであるなら、それを信じた人々はどうなるのでしょうか。当然のことながら、永遠に滅びてしまうのです。

大川師は、本の81ページに、「私自身、本当の答えを、キリスト教界ではなく、聖書に求めてきたのです」と述べています。これは勿論、正しい姿勢だと思いますが、長年、異端・カルト問題に取り組んで来た者として、少々、この言葉に引っ掛かります。本の中で何度も強調しているように、セカンドチャンスの教理はキリスト教界に認められているものではありません。大川師だけが発見して、一人で掲げている真理だということになります。私だけが聖書を理解している。他のキリスト教会はすべて間違っている。これは、異端・カルトによく見られる特徴です。勿論、大和カルバリーチャペルは異端だとか、カルトだと言っている訳ではありません。ただ、「他の教会は何も分かっていない」という態度を取り続けると、大川師は、キリスト教界の中でかなり孤立した存在になり、「この教会は特別だ」と強調すればするほど、教会が偶像化してしまう恐れがあります。

「よみ」の解釈は正しいか

では、大川師は、どの聖書個所を用いて、セカンドチャンスの正当性を主張されるのでしょうか。まず、「よみ」、または「ハデス」の話が出て来ます。イエス・キリストによる救いを受けなかった人はすぐに地獄に行くのではなく、よみに行くと言っています。これは、基本的には正しい聖書理解だと私も考えています。人が地獄(聖書は「ゲヘナ」と呼んでいますが)に投げ込まれるのは、キリストの再臨の後、最後の審判の時です。黙示録20章に書かれている通りです。それまで、キリストを信じなかった人々はハデスに収監されています。しかし、ここから大川師の主張が聖書から大きく逸脱していきます。「よみに関して、それが具体的にどのような場所であるか、聖書には多くの記述がありません」と断っておきながら、次のように述べています。

「たくさんの魂がいる場所であろうよみの中にも、慰めを覚えるようなところと、苦しみを受けるようなところがあることが記されています。それは生きている間の、その人の生き方や、行ない、罪の深さなどによるようです。多くの罪を犯して死んでいく人よりも、素晴らしい生き方をしながら、イエス・キリストを知らずに死んだだけの人の方が、よみの中でもより居心地の良い場所にいることは、正しい神のなさることとしては当然な気がします」

(115-116ページ)

「…ようです」とか、「…気がします」という表現が示しているように、これは聖書に明記されていることというより、大川師の個人的な希望に基づいた主張です。

更に、「素晴らしい生き方をしながら、イエス・キリストを知らずに死んだだけの人」というくだりがありますが、これは完全に聖書を否定する発想です。イエス・キリストを信じて救われなければ、新しく生まれなければ、「素晴らしい生き方」のできる人は一人もいません。確かに、他の人間から「素晴らしい生き方をした人」と評価されるかも知れませんが、神の目から見れば、神を認めずに、自分だけの力で生きている人は「素晴らしい生き方」などできるはずもありません。そのような高慢な人間の義は、イザヤ書64章6節にあるように、「不潔な着物のようです」。また、エペソ書に書かれている通り、救われる前の人間は「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順な子らの中に働いている霊(注:サタン)に従って歩」む者であり、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」です(エペソ人への手紙 2章1-3節)。ローマ人への手紙においても、「義人はいない。ひとりもいない。…善を行なう人はいない。ひとりもいない」と明記されています。イエス・キリストも、弟子たちに対して、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われました(ヨハネ の福音書 15章5節)。もし、信じる者がキリストを離れて何もできないとすれば、未信者はなおさらのことです。これは極めて基本的なことで、また聖書が終始一貫して述べていることです。ここからスタートしなければ、正しい聖書理解は絶対に生まれません。

聖書は「よみ」について明確に述べていないのか

もう一つ、とても不思議に思うのは、「聖書はよみの具体的な実体について多くのことを述べていない」として、大川師がよみのことを詳しく描写している聖書個所を取り上げていないことです。その聖書個所とは、ルカの福音書 16章19-31節にある「金持ちとラザロの話」です。ラザロは貧乏人で、また病弱で、金持ちの家の門前で横になりながら金持ちからの施しを求めました。しかし、自己中心的な金持ちは、ラザロを顧みることがありませんでした。「ラザロ」という名前は、ヘブル語で「神が助け」という意味です。厳しい状況の中で、彼はその名前の通りに、神に目を留め、神に希望を託す人だったのでしょう。一方、贅沢に遊び暮らして、哀れなラザロを助けようとしなかった金持ちは、神を畏れない人だったと言えます。ラザロはやがて死に、金持ちも死にますが、二人が置かれている状況が逆転します。ラザロは御使いのエスコートでアブラハムのふところに連れて行かれました。そこは慰めの場所でした。それに対して、金持ちは苦しみの場所に連れて行かれました。こうして、よみ、またはハデスが、イエス様の復活の前は二分されていたことが分かります。神を信じた者は、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムのところに行って、慰めを受けます。一方、信仰のない者は、大きな淵によってアブラハムから隔てられた苦しみの場所に行った訳ですが、キリストの復活後、アブラハムと、彼と共にいた旧約聖書の聖徒たちは天に連れて行かれ、その後キリストにあって死んだ者も、キリストのもとに行きます。ハデスに残ったのは、信仰のない者だけです。この話の後半で、金持ちとアブラハムは会話を交わしています。

「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」」

(ルカの福音書 16章23-26節)

ここで注目すべきポイントは、アブラハムが金持ちに対して、何の希望も提供していない、ということです。つまり、もし大川師が主張するように、ハデスの苦しみの場所に行った人間に悔い改めるチャンスが与えられるとするなら、アブラハムは金持ちに、こう語ったはずです。「おまえは苦しいだろうけれども、しばらく我慢するのだ。おまえにも救いのチャンスが必ず、与えられるのだから。」繰り返しになりますが、大川師がこの明確な聖書個所を一切、取り上げないのは、不思議でなりません。

福音を明確に語ることは「人を裁く」ことなのか

もう一つ、不思議に思うのは、116ページに書かれている論法です。

「間違った生き方をし、よみの世界で苦しみを味わうことになる者でも、その命を最終的にどうするかは、命を与えてくださった創造主の仕事であることがわかります。『復讐してはいけない。復讐は私がすることだから』という聖句の通りです。『人を裁いてはいけない』と私たち人間に命じる神の愛が一貫しているのです。人間の命を救うのは、最終的には神の領域なのです。」

(116ページ)

確かに、人間は裁いてはいけません。つまり、「あなたは救われる価値のない、どうしよもない罪人だ」と人にレッテルを貼るようなことをしてはなりません。しかし、聖書に基づいて、「イエス・キリストを信じる人は救われますが、信じない人は滅びます」と語ることは、人を裁くことではありません。それは、神が定められたことを正確に伝えることなのです。また、大川牧師は神の愛の深さを強調して、ヨハネの福音書3章16節をよく引用しますが、その後続く聖句を引用しないのは、どうしてでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」
(ヨハネの福音書 3章16-18節)

また、3章36節にも、重要なことが書かれていますが、これも大川師の本には出て来ません。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

(ヨハネの福音書 3章36節)

聖書のメッセージは明快です。福音は信じる者にとってはグッド・ニュースとなります。一方、信じない者にとっては極めて厳しいメッセージですが、神の真理のすべてを正直に語ることがクリスチャンの務めであるはずです。キリストを信じない者は、「すでにさばかれている」し、「いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」と聖書に書かれている以上、その真理を否定するような話をしてはなりません。

福音を聞かずに亡くなった人は救われないのか

しかし、それでも、セカンドチャンスの支持者たちは、人間的な感情論に走ります。「聖書はそう言っているかも知れないけれども、人間の常識で考えても、あり得ない。この地上でキリストを信じない人でも、きっと救われるチャンスが与えられるはずだ。そうでなければ、彼らは可哀想過ぎる。アンフェアーな話だ。」特に、亡くなった先祖の問題を論じる時に、このような主張が出て来ます。

確かに、19世紀以前に生きていた日本人は、宣教師から福音を聞く機会がなかったかも知れません。私のイギリスの先祖も、1611年に欽定訳ができて、初めて聖書を手に入れることが可能になりました。宗教改革はその約100年前から始まっていましたが、「義人は信仰によって生きる」というメッセージを聞くことができた人々の数は、ごくわずかです。その前の時代の先祖たちは、多くの迷信に縛られて、霊的な暗闇の中で生活していました。カトリックの教会に通って、意味の分からないラテン語による礼拝に出て、漠然とした慰めになっていたかも知れませんが、聖書教育を受けていなかったことは確かです。では、聖書的な福音を聞くチャンスのなかった、私の先祖はどうなったのでしょうか。イエス・キリストを救い主として受け入れていなかった可能性が高いのですが、彼らは救われないのでしょうか。それとも、死んだ後、悔い改める機会が与えられたのでしょうか。人間的に考えるなら、「セカンドチャンスがあってほしい」という気持ちになります。それが、人間としての自然な感情だと言えるでしょう。しかし、繰り返しになりますが、この難しい神学問題に取り組む時に、人間の感情をベースに考えるべきではありません。あくまでも、神の啓示である聖書から冷静に判断すべきです。

では、この問題に答えるためのヒントが聖書にあるのでしょうか。何カ所かを一緒に見てみましょう。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」

(ローマ人への手紙 1章18-23節)

ここで使徒パウロが述べているのは、神のみことばに預かっていたイスラエルの民のことではなく、異邦人のことです。つまり、聖書の話を聞く機会のなかった国々の人間です。彼らは聖書に触れたことがなかったのですが、「真理をはばんでいる」と言われています。つまり、神の創造された世界を見て、神について多くの知識を得ることができたのに、神を神として崇めませんでした。偶像の神々に仕える道を、自ら選んでしまった訳ですが、聖書を読むことができなかったということで、神が彼らの罪を大目に見てくださると書かれているのでしょうか。「彼らは可哀想だから、ハデスでもう一度、信じるチャンスを与えよう」と言われているのでしょうか。いいえ、彼らの上に神の怒りが臨んでおり、また「彼らに弁解の余地はないのです」と断言しているのです。

この「弁解の余地はない」というのは、非常に重い言葉です。つまり、「神様、私は聖書を読むことができませんでした」という口実も、「あなたを信じる人間の敬虔な生き方を見るチャンスがありませんでした」という口実も、「私の周りにクリスチャンはいましたが、皆、偽善者でした」という口実も、神の御前では通用しないのです。ここで、もう一度、確認しておきたい重要なポイントは、誰でも聖書があってもなくても創造主なる神に関する霊的知識(光)を得ることができるということと、その霊的知識にどう応答したかについて責任を問われる、ということです。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません

(使徒の働き 17章24-27節)

使徒パウロの有名な『アレオパゴス説教』の一部ですが、言うまでもなく、対象はギリシヤ人、つまり異邦人です。人類の歴史において見られる神の摂理は、ご自身を求めさせるための恵みです。いつの時代であっても、神の恵みによるみわざを確認できます。問題は、人がその恵みに応答したかどうか、です。パウロは、「もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともある」と断言しています。ですから、「亡くなった先祖はどうなったか」という問題に対して、次のような結論を導き出すことができます。

  • 彼らが創造主なる神を求めたのであれば:神に出会っているはずです。それが聖書の約束だからです。
  • 神を見出さなかったのであれば:それは彼らが神を求めなかった、与えられた光に応答しなかったということで、その罪に対する責任を負わざるを得ないということです。

勿論、何世紀も前に亡くなった先祖について推論することには、限界があります。彼らに関する正確な知識を持っていないからです。暗黒時代に生きていた私の先祖たちがどのような信仰をもって、どんな生き方をしたか、私には全く分かりません。創造主なる神に向かって祈ることがあったかどうか、分かりません。神の恵みに対して感謝したかどうか、分かりません。もしかすると、死ぬ間際に、夢の中にキリストが現われて、「私があなたの救い主です。わたしを信じなさい」と語りかけていただいたかも知れません。いずれにしても、私は彼らのことを神の御手に委ねています。「彼らはどうなったのだろうか」と考えたり、心配したりしません。神が正しく取り扱ってくださるはずです。

ペテロの手紙第一 3章18-19節はセカンドチャンスの根拠となるか

最後になりましたが、大川牧師がセカンドチャンスの聖書的根拠として挙げておられる個所、最も重要な聖句とされている所を見てみたいと思います。大川師はこの聖句について、次のように述べています。

「この肉体が地上に存在する間にイエスを信じない者は、そこでゲームオーバーだと、私には、どうしてもそう思えないのです。無限大とも言えるイエスの愛の深さを感じる時、イエスは、決してそんなことをなさるはずはない、私は確信しています。聖書にまさにそのことを伝える、証拠となる記述があります。

(148-149ページ)

こう述べてから、ペテロの手紙第一 3章18-19節を引用されます。

「キリストも罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者のために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きるものとされたのです。そして霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました

(新共同訳 ペテロの手紙第一 3章18-19節)

また、大川牧師は、この聖句について、次のようにコメントをしています。

「このようなはっきりとした、まるで宣言とも言えるほどの表現をしているのが、聖書のこの個所だけである、という理由で、イエスがよみで死者の魂に福音を伝えていることを受け入れられない、という神学者もいます。でも、聖書に1箇所でも書かれているのであれば、それが絶対的なものであると信じることができるのです」

(142ページ)

大川牧師が述べているように、ペテロの手紙第一 3章18-19節から、「セカンドチャンスはあり得る」とは解釈しない神学者もいます。というよりも、大川師の解釈を支持する神学者はほとんどいない、と言った方が正確です。

また、「聖書に1箇所でも書かれているのであれば、それが絶対的なものであると信じることができる」と言われますが、いささか、違和感を覚える発言です。聖書解釈の基本的なルールですが、重要な教理は聖書の1箇所だけでなく、聖書全体の多数の所において容易に確認できるものです。また、当然のことながら、既に挙げている聖書個所(ローマ人への手紙 1章18-23節、使徒の働き 17章23-27節 など)も考慮されなければ、正しい聖書解釈はできません。

では、ペテロの手紙第一の聖句を詳しく見ていきましょう。カギとなるのは、「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」という部分ですが、まず、「捕らわれていた霊たち」とは、誰を指しているのでしょうか。言うまでもなく、大川牧師は、それは救いに預かるチャンスのなかった人々だと言っていますが、20節を見ると、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られている間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」とあります(『新共同訳』)。「霊」と訳されているギリシヤ語の「プニューマ」は、人間の霊に対しても、また御使いに対しても用いられますが、一つのグループとして、「霊」とか、「霊たち」、あるいは「霊ども」という表現は通常、悪霊を指しています(マタイの福音書 8章16節、12章28節、マルコの福音書 1章27節、3章11節、テモテへの手紙第一 4章1節)。この「捕らわれていた霊たち」が悪霊を指しているということは、ペテロの手紙第二 2章4-5節を見ても、明らかです。

「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです」

(新共同訳 ペテロの手紙第二 2章4-5節)

暗闇の穴の中に閉じ込められた御使いたちは、ノアの時代に神に逆らった「捕らわれていた霊たち」なのです。4節の「地獄」は、「タルタールス」と言って、新約聖書のここにしか出てこない言葉ですが、ギリシヤ神話では、ハデスよりも下にある所と考えられていました。よく確認していただきたいのですが、ペテロは3章19節で、「よみ」、または「ハデス」という言葉を使っていません。「捕らわれていた霊たちのところ」と言っています。ですから、大川師の釈義上の最初の問題は、「よみ」とは書かれていないにもかかわらず、無理矢理、これを「よみ」と読ませていることです。

ユダも、その手紙の6節で、タルタールスに閉じ込められた御使いたちに言及しています。

「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗やみの中に閉じ込められました。」

(ユダの手紙 1章6節)

この「天使たち」は明らかに、「捕らわれていた霊たち」と同じグループです。また、7節に、ソドムとゴモラのことが書かれているので、この天使たちが自分のおるべき所を捨てたのは、その前のノアの時代のことだと考えても差し支えないでしょう。

次に、「捕らわれていた霊たち」に伝えられたメッセージの内容について考えてみましょう。『新共同訳』には、「キリストは…宣教されました」とあります。一方、『新改訳聖書』には、「宣言されました」と書かれています。大分、意味が違いますが、ここに使われているギリシヤ語の「ケーリュソー」は、単に「告げ知らせる」という意味です。ちなみに、「喜びのおとずれを伝える」という場合は、「ユーアンゲリゾー」が用いられます。残念ながら、その「宣教」、あるいは「宣言」の具体的な内容は不明ですが、仮に「十字架による贖いが成し遂げられた」というメッセージだとしましょう。そこで、まず疑問に思うのは、地上の誰もこの良きおとずれをまだ聞かないうちに、どうしてノアのメッセージを拒んだ人々にその特権が与えられるのか、ということです。不可解でなりません。もう一つの疑問は、キリストによって福音が語られていたとするなら、どうしてその結果、何が起こったかということが記されていないのか、という疑問です。つまり、福音が語られていたのなら、救いのみわざがなされたはずです。しかし、救われる魂が起こされたとは、どこにも書かれていないのです。では、キリストが捕らわれていた霊たちに福音を伝えなかったとすれば、どんなメッセージを語られたのでしょうか。勿論、断定はできませんが、彼らに対する勝利宣言だったと考えることが最も自然ではないでしょうか。22節を見てみましょう。

「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」

(新共同訳 ペテロの手紙第一 3章22節)

ペテロが言わんとしていたのは、次のようなことではないでしょうか。

「イエス・キリストはその十字架の死によって、サタンとその諸々の悪霊どもに完全に打ち勝ってくださった。そのことは、タルタールスにいる霊たちにも宣言されて、動かぬ事実として認められた。」

実際に、このメッセージこそ、迫害によって苦しめられているクリスチャンたちの慰めになるメッセージなのです。これがもし、「ノアの時代に、神に逆らった人々にセカンドチャンスが与えられた」というメッセージだったら、果たして迫害に耐える力になったのでしょうか。

ここで、もう一度、大川牧師の主張をまとめてみましょう。

  1. 「捕らわれていた霊たち」とは、救いに預からなかったすべての時代の人間のことである。
  2. 「捕らわれていた霊たちのところ」とは、よみ(ハデス)のことである。
  3. 「宣教されました」とは、イエス様が福音を伝えた(何度も伝えた)ということで、それによって多くの人々が救われた、ということである。

大川牧師の解釈に対して、私はペテロの聖句を、次のように理解しています。

  1. 十字架の死によって贖いを成し遂げられたイエス様は、一度限りタルタールスに下りた。
  2. 堕落した御使いたちに対して勝利宣言、あるいは断罪の言葉を宣べられて、霊の世界においてすべての権威が与えられたことを明らかにされた。
  3. そこで、弟子たちに対して、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイの福音書 28章18節)とおっしゃってから、彼らを世界宣教に遣わされた。

このように、細かく分析すれば分かるように、ペテロの手紙第一 3章19節は決して、大川牧師の主張するセカンドチャンスを支持するみことばではありません。しかし、それにもかかわらず、『永遠と復活』の145ページには、こう記されています。

「死者の世界にも希望がある。魂が永遠に生きる道がある。なぜなら、愛である神が私たちをよみから引き揚げてくださるからです。それは聖書の約束です。聖書で約束されていることは100パーセント成就するのです。100パーセントです。」

(145ページ)

残念ながら、聖書の約束ではありません。大川師の希望的観測に過ぎないのです。キリストを信ぜずによみに下った人に救われるチャンスが与えられ、必ず、よみから引き揚げられると保証する聖書個所はありません。

セカンドチャンス論は日本のリバイバルに有益か

また、143ページには、以下のようにあります。

「みんなよみの世界にいて、イエス様から福音の伝道を受ける時が来ます。その時に、彼らが福音を受けられるように祈ることが、私たちにはできるのです」

(143ページ)

しかし、聖書のどこにも、死人のための祈りを勧める個所はありません。亡くなった先祖のために祈る人物も登場しません。

更に、179ページに大川牧師の祈りの言葉が書かれています。

「そして、もしも許されるなら、私が死んだ後、天国に行くよりも、よみで待つ私たちの先祖や愛する人にあなたが福音を宣べ伝える時に、どうか、私を手元に置いて、日本人の魂に伝道する道具としてください。」

(179ページ)

亡くなった同胞に対する並々ならぬ情熱が伝わって来ますが、これも聖書に前例を見ない祈り方です。大川師は、本当に同胞の救いのためによみに行っても良い、と思っているのでしょう。30年前から彼を存じ上げている者として、私もそのことを証言できます。心から日本のリバイバルを望んでいる方です。また、日本のリバイバルを願っているからこそ、セカンドチャンスの教理を広めようとしていることもよく分かります。

確かに、セカンドチャンスの教えを語れば、亡くなった先祖のことを心配する人々に対して、「あなたの先祖は大丈夫ですよ」という慰めのメッセージになるかも知れません。安心してクリスチャンになる方がいるかも知れません。しかし、忘れてはなりません。セカンドチャンスは必然的にも、「あなたは今、イエス・キリストを信じなくても良いのですよ。死んだ後でも間に合いますよ」というメッセージにもなるのです。勿論、大川牧師はそのように人に勧めるはずはないと分かっていますが、セカンドチャンスの話を聞く人々の中に、そのように受け止める人は間違いなく、います。人間は都合よく、人の話を聞き、また解釈します。「ハデスに行ってしまっても、心配は要りません」と言われれば、「じゃ、今すぐにキリストを信じる決心をしなくても良いんだ。死んだ後でも間に合うなら、じっくり考えよう」という人が必ず、出て来るのです。こうして、日本のリバイバルに不可欠だとされるセカンドチャンスが、実は伝道の大きな妨げにもなり得るのです。

老齢の父親に福音を伝えた方の証言

最後に、この『反証』の原稿に目を通してくださった方から寄せられたメールをご紹介します。

「ウッド先生の書かれたものを読んだ矢先に、私の家族の中で一つの出来事がありました。98歳の父が、2月に洗礼を受ける運びとなったのです。しかし、そこに至るまでは長い道のりでした。洗礼の決心に至るまで、私たち夫婦は毎週のように父の実家に通いつめ、父の昔話を延々聞いた上で、神様の話や天国の話をしてきたのです。なぜなら、この地上においてイエス様を救い主と信じなければ、地獄に行ってしまう切迫感にかられていたからです。たぶん、普通のクリスチャンであれば、家族の誰かが年老いてきたときに、「早く信仰告白に導かなければ」という、私たちと同じような切迫感にかられることでしょう。幸い、父から「洗礼を受けてもいい」というひと言が昨年末に発せられたことで、洗礼式の運びになった次第です。私の中には「ああ、間に合ってよかった」という安堵感でいっぱいです。しかし、もし私がセカンドチャンス論者だったなら、夫婦そろって毎週のように実家の父のところに通いつめることは決してなかったと思います。そういう意味で、「大事なことを後回しにせず、今、福音を伝えなければ」という切迫感は、まさに聖書が伝える福音の緊急性ではないかと思っており、その点においてセカンドチャンスはその緊急性を奪ってしまう恐ろしい教えではないかと感じています。」

「アーメン」ではないでしょうか。

おわりに

セカンドチャンスの問題について、更に深く学びたい方は、私の著書『セカンドチャンスは本当にあるのか』を読まれることをお勧めします。
書籍・DVDの紹介のページから購入できます。

ウィリアム・ウッド
2021年2月11日(金)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です