地球の絶滅危機を訴える少女
2019.11.6災難の中の幸い
2020.5.10今、淵田美津雄という名前を知っている日本人がほとんどいないようですが、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官を務めた人です。「真珠湾の英雄」と称えられ、昭和天皇への真珠湾攻撃軍状奏上も許されました。その後も半年間、第一航空艦隊が南下して行くに従って、更に多くの功績をたてましたが、1942年6月、ミッドウェー作戦に参加する準備をしている最中に、虫垂炎になり、盲腸の手術をしなければなりませんでした。そのために出撃できずに、空母赤城艦上に留まりましたが、手術を受けた直後で、空母の一番下にある病室で安静にしていなければならないのに、ミッドウェーの戦いの行方が気になって、医者の命令を無視して、幾つもの階段を上って、甲板に立っていました。ちょうどその時です。空母赤城が魚雷の攻撃を受けて、大爆発が起き、病室のある一番下の階から火事が発生し、病室にいる者は全員、死亡したのです。
この後も、淵田さんの命が奇跡的に助かることが続きます。1945年8月5日、淵田さんは会議で広島を訪れていました。その日の夕方、たまたま海軍の命令で少し離れた所に移動したために、8月6日の広島への原子爆弾投下から間一髪で逃れました。しかし、被害の調査を命令された淵田さんは、数人の軍人と共に、広島に戻り、大量の放射線を浴びることになります。その後、同行していた仲間が次々に倒れて、死んで行きましたが、淵田さんだけは放射線障害の症状は全く出なかったのです。
終戦を迎えて、「この戦争に何の意味があったのだろうか」、「何故、私だけが生き残ったのだろうか」などの疑問を抱きながら、言いようのない挫折感や虚無感を覚えた淵田さんは、戦時中フィリピンで殉教の死を遂げた宣教師の話、またその宣教師の娘がアメリカの収容所にいる日本の捕虜や移民に献身的に仕えていたという話を耳にします。更に、日本の捕虜となって、凄まじい拷問を受けたジェイコブ・デシェーザ―に関する情報を聞きます。デシェーザ―さんは、戦争が終わって間もなく、宣教師として日本に来て、こう講演会やビラ配りを通してキリストの十字架による赦しと和解のメッセージを伝えていたのです。淵田さんは、そのビラを手に入れて読み、聖書に対する興味を持ち、みことばを読むようになりました。特に、彼の心の響いたのは、主の十字架上の、あの有名な言葉です。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」(ルカによる福音書23章34節)
淵田さんは、1951年に、ついにクリスチャンになったのです。更に、その後、デシェーザ―さんとの出会いを果たし、1952年から1957年まで、8度にわたり、アメリカへ伝道の旅に出かけました。戦争が終わってまだ間もないアメリカ人は、「リメンバー・パール・ハーバー」(真珠湾攻撃を忘れるな!)というスローガンのもとに、日本人に対する強い恨みや憎しみを抱いていました。その真珠湾攻撃の指揮をとった当本人が現れたということで、大騒ぎになりました。暴徒に襲われそうになる場面もあったのですが、大勢の人々がキリストを信じる信仰に導かれたのです。
『手負いの虎』という題で、淵田さんの伝記が東京五輪に間に合うように、出版される予定だと聞いています。暗いニュースばかりが流れて、今、落胆している人々に、確かな希望を提供してくれる本だと思います。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(コリント人への第二の手紙4章8―10節)
この「倒されても滅びない」というのは、ノックダウンされることがあっても、ノックアウトされることはない、という意味です。私たちはそれぞれ、人生の中で大きなパンチを食らうことがあるかも知れませんが、キリストを見上げる時に、必ず、再び立ち上がる力が与えられます。