神の御手の中にある鉛筆
2012.2.16リンカーンで始まってオバマで実現したビジョン
2012.2.16先日、義父が突然、天に召されました。昨年の11月に「血管肉腫」という悪性腫瘍に侵されていることが分かった時は、既にリンパ腺に転位していました。93歳という高齢でもあったので、私たちは一応、覚悟はしていましたが、やはり、義姉から「今、召された」という知らせを受けて、びっくりしました。というのも、弱さを覚えつつも、自力で生活をし、いつも毅然とした態度でいたからです。後に、1月4日の礼拝では、信徒を代表して新年のあいさつもしたと聞きました。
義父はいわゆる学歴も、社会的地位も、それなりの経済力も備えられていました。大学生の時には聖書を読んでいたとも聞いています。また、出張でスイスに行き、アルプス山脈を見た時は、そのあまりの自然の偉大さに圧倒され、思わず造り主なる神様をほめたたえる気持ちで絵を描き、その隅に、「ああ、神よ」という言葉を書き添えたこともあります。長い道のりでしたが、1996年、ついに義父は80歳をすぎて、洗礼を受けたのです。
告別式の時に、姉が挨拶の中で、一つの詩を参列者の皆さんに紹介しました。父が最後に読んでいた詩だそうで、『最上のわざ』というものです。
「この世の最上のわざは何
楽しい心で年を取り
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に、平静に、おのれの十字架を担う
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役立たずとも
親切で柔和であること
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後の磨きをかける
まことの故郷へ行くために
おのれをこの世につなぐ鎖を
少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事
それを謙遜に承諾するのだ
神は最後に一番よい仕事を残してくださる
それは祈りだ
手は何もできない、けれども最後まで合掌できる
愛するすべての人の上に
神の恵みを求めるために
すべてをなし終えたら
臨終の床に神の声を聞くだろう
『子よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と」
(ヘルマン・ホイヴぇルス著「人生の秋に」より)
クリスチャンの人生観、また死に対する考え方を的確に表している詩だと言えると思います。普通、人間が年老いて、体力的に衰えていき、最後に死を迎えるということは、過酷な、悲しむべき運命と考えられています。しかし、信仰があるなら、この避けられない運命の中にも、神のご計画があり、大きな恵みがあると受け止めることができるのです。
「モーセの祈り」と呼ばれる詩篇90篇には、こうあります。
「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』まことに、あなたの目には、千年もきのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。・・・・あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。私たちの手のわざを確かなものにしてください」(3-4節、16-17節)。
最後まで、あなたの人生において、神の最上のみざわが現わされますように。