1883年のある日のことです。アメリカのニューイングランド地方は、朝から不気味な暗闇に覆われました。9時、10時になっても、太陽が出ません。不安になった人々は身を寄せ合って、この前代未聞の出来事は何を意味するかと考えました。「ただの日食で、すぐ明るくなる」という楽観的な意見の持ち主もいれば、「神の裁きであるに違いない」と結論づける人もいましたが、数時間たっても何の変化もなく、人々は続々と教会に集まり始めました。お昼までには、どこの教会も祈る人々で満杯状態でした。
「神様、私たちを哀れんでください。」
「主よ、どうか、もう一度、太陽が出るようにしてください。」
「裁き主なる神様、悔い改めますから、私の罪を赦してください。」
夜遅くまで、切実な祈りが続きました。次の朝、人々は町の高台に集まり、瞳を凝らして、東の地平線を見つめました。すると、いつもの時間に、日が上って来たのです。人々は感激のあまり、叫んだり、手を叩いたり、踊ったり、神をほめたたえたりし始めました。 この驚くべき現象の原因は、実は、マレーシアのクロカトア山の噴火にありました。クロカトア山は、膨大な量の火山灰を噴出し、それが巨大な黒い雲となって上層気流に乗り、地球の反対側にあったニューイングランド地方をすっぽり覆ってしまった訳です。
恐らく、当時の人々にとっては、太陽の恵みに感激したり、感謝したりするなど、生まれて初めての経験だったのでしょう。それまで、「毎日、太陽の光があって当たり前だ」、と考えていたはずです。しかし、このように、神の恵みに慣れてしまうことは、恐ろしい霊的な病であると、聖書は警告しています。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」(ローマ書1章20~23節)。
神に感謝しなくなった人々の上に、三つのことが起こりました。彼らはむなしくなり、暗くなり、愚かになったのです。
私たち現代人も、感謝することの少ない者ではないでしょうか。太陽の恵みが与えられていること、健康が支えられていること、食物が豊富に備えられていること、平和に暮らせていることなどについて、果たしてどれほど感謝しているのでしょうか。私たちはとかく、自分の抱えている問題や、周りの人間の幸せ・成功に心を奪われ、愚痴をこぼし、今与えられている祝福を見失ってしまいがちですが、うっかりすると、心が暗くなり、空しい人生を歩むことになってしまいます。
あなたの心は、感謝の気持ちで満たされていますか。それとも、不平不満で一杯ですか。