昨年、日本政府による沖縄県・尖閣諸島の国有化に抗議し、中国の各地で反日デモが行なわれました。その中で、暴徒の標的となった日系企業の工場やスーペー、コンビニなどの店舗は破壊され、放火によって大きな被害を受けました。デモに参加した、ある人たちは、「宣戦を布告せよ!」とか、「東京に原爆を落とせ!」とかいうような過激な言葉を叫んでいました。一時、日本製品をボイコットする動きも広がりました。今現在、鎮静化のしるしも現れているようですが、どうして、誰も住んでいない小さな島のことで、これだけの大騒ぎが起こるのでしょうか。
その理由は、44年前に行なわれた海底調査に遡ります。東シナ海の大陸棚石油資源が埋蔵されていることが明らかになったのです。推定2000億バレルという、サウジアラビアに次ぐ大量の石油埋蔵量の可能性があると言われています。この海洋調査の結果が発表されてから、中国が突然、領有権を主張し始めた訳ですが、日本政府としては、話し合いによって解決をしたいと考えています。また、日本と中国の両国において、新しい政権が誕生して、何らかの進展があるのではないかと期待されています。しかし、これだけ莫大な富がかかわっていると、そう簡単には落とし所が見つかりません。1978年の10月に、中国首脳として初めて訪日した鄧小平氏は、尖閣諸島の問題にふれて、「後の時代の人々が私たちよりも頭が良いだろうから、彼らに任せよう」という発言をしています。それだけ難しい問題なのです。もし、ある政治家が提案しているように、日本が強引に国有化を進めていくと、ますます、中国の反発を買うことになります。戦争に発展することにもなり兼ねないのです。唯一の解決法は、油田の共同開発だと思いますが、これもなかなか困難な話でしょう。日本と中国が、膨大な富を仲良く山分けにするとは想像しにくいのです。いずれにしても、お互いに自分の領有権ばかりを主張している間は、どちらのサイドも損をします。海底に眠っている石油は、誰のものにもならないのです。
愚かな人間の罪を示している話ではないでしょうか。人間は、富を得ることによって自分の幸せや安全が保証されると考えます。そこで、必死になって、富を追い求めます。必要があれば、戦います。誰が迷惑しようと、被害を受けようと、関係ありません。とにかく、富を確保できれば、あるいは富を守ることができれば、それで良いのです。こうして、人間が自分の利益ばかりを最優先している限り、戦争はなくなりません。
しかし、一方、「私の必要は十分に満たされている。私は十分な物を持っているから、満足している。安心だ。幸せだ」という実感があるなら、人と争わなくなります。では、この満足感や幸福感や心の豊かさはどこから来るのでしょうか。なかなか、この世の富や名誉によって得られるものではありません。この世のものは消え去って行く、はかないものです。しかし、永遠になくならない富もあります。それは銀行に預けるものではなく、手に持つものでもありません。イエス・キリストを信じる者の心に与えられるものなのです。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます』」(ヨハネによる福音書4章13―14節)。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(7章:37-38節)。
イエス・キリストが与えてくださる永遠の命は、人間の霊的な渇きを完全にいやすものです。この「生ける水」を飲む者が増えれば増えるほど、人類の夢である世界平和に近付くことができるのではないでしょうか。