タイタニック号の最後のヒーロー
2012.4.17いじめ問題を考える
2012.8.18 ドイツの音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父、モーゼス・メンデルスゾーンの話です。モーゼスは決して、いわゆる「イケメン」ではなかったようです。そのおもな原因は、背中にこぶが出来ていたことですが、ある日彼は、ハンブルクの証人の家を訪問し、そこでフルミーテという名の美しい娘に出会います。一目ぼれでした。ところが、悲しいことに、その娘はモーゼスの方を見向きもしてくれません。その家を去る時間が来ました。モーゼスは勇気を振り絞り、その娘の部屋に通じる階段を上り、何とか彼女に話しかけようとします。モーゼスは恥ずかしそうに、言いました。
「お嬢さん、あなたは、結婚は天において決められているものだと信じますか。」
「はい」と、彼女は床に目を落としたまま答えます。「あなたもそう思われますか」と返してきます。「ええ、勿論です」とモーゼスは答え、更にこう続けました。
「天ではね、男の子が生まれると、神様がその子に、どの女の子が妻であるかが告げられます。私も生まれた時、神様にこう言われました。『ところで、お前の妻の背中にこぶがあるよ。』そこで、私は神様にこう言ったのです。『主よ。女性にとっては背中のこぶは悲劇です。主よ、どうか、そのこぶを私の背中につけてください。そして、彼女を美しくしてください。』」
娘は心の奥底が揺さぶられるような感動を覚え、初めてモーゼスの目を見つめます。また、彼女は彼に向って手を伸ばし、彼と握手を交わします。後に、この娘はモーゼスの愛する妻となるのです。この娘は何に感動したのでしょうか。真の愛、自己犠牲の愛に感動したのです。モーゼスが実際に神と今のような対話をしたかどうか定かではありませんが、「この人は私のためにどんな犠牲でも払う覚悟が出来ている」と彼女は感じ取ったようです。
「主よ、どうか、そのこぶを私の背中につけてください。そして、彼女を美しくしてください。」
なかなか、言える言葉ではありませんが、聖書の語る神の愛の本質をよく表しています。特に、イエス・キリストが十字架によって示された愛と共通するものがあります。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリント5章21節)。
この聖句にあるように、キリストは罪のない方でしたが、私たちの罪を自ら、自分の身に負ってくださいました。私たちの身代わりとなって、罪の罰を受けてくださったのです。それは、私たちの罪が赦され、私たちが神の前で義と認められるためです。こうして、聖い方が、私たちの醜さを引き受けてくださって、私たちを美しい者に造り変えてくださった、ということが言える訳です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5章17節)。
この愛に感謝しながら生きている者は、幸いです。