じゃ、いつやるか?今でしょ!
2013.7.3出生率の低下という難問
2013.10.28先月、私の親戚がメールで送ってくれた話ですが、アフリカのコンゴ共和国の病院で働いていたアメリカ人宣教師のお医者さんの証しです。ある若い女性が難産で、病院に運ばれて来ました。しかし、お医者さんの懸命な努力の甲斐もなく、女性は亡くなってしまいました。しかも、未熟児で生まれた赤ちゃんもとても危険な状態でした。保育器など、ありません。特に心配なのは、夜、気温が急激に下がった時です。コンゴは赤道直下にある国で、日中はとても暑いのですが、夜はかなり冷えます。とりあえず、お医者さんは病院にあったゴムで出来たたった一つの湯たんぽを使って、赤ちゃんを温めようと考えました。ところが、お湯を入れた途端、古くなっていた湯たんぽは破れてしまいました。仕方なく、その夜は焚き火をして、毛布で赤ちゃんをぐるぐる巻きにして、何とか赤ちゃんの命を守りました。
次の朝、お医者はいつものように、近くの孤児院を訪ねました。そして、子どもたちに、湯たんぽもなくて赤ちゃんの命が危ないこと、またその赤ちゃんの2歳のお姉さんがお母さんを亡くした悲しみでずっと泣いていることを話しました。そのことについて、皆で祈ろう、ということになりました。その時です。一人の10歳の女の子が、こう祈りました。
「神様、今日、湯たんぽを送ってください。明日では、間に合いません。今日、送ってもらわないと、困ります。またついでに、赤ちゃんのお姉さんを慰めるために、人形を送ってください。」
お医者はその率直な祈りに感動しながらも、なかなか「アーメン」とは言えませんでした。人間的に考えて、その祈りが答えられる可能性がないことが分かっていたからです。必要なものが与えられる可能性があるとすれば、母国の教会から支援物資として送られて来ることですが、アフリカに来て4年経っても、今までそのようなプレゼントが届いたことは一度もありません。仮に、誰かが支援物資を送ったとしても、その中に、湯たんぽを入れるはずもありません。赤道直下にある国だからです。しかし、奇跡が起きました。その日の午後、母国からの大きな箱が届きました。最初に、孤児たちのための洋服が出て来ました。また、病院の患者さんたちのための包帯も出て来ました。そして、次に、何と、湯たんぽが出て来たのです。お医者さんは泣き崩れました。最後に、箱の底に、包装紙に包まれた物が残っていました。箱から出さなくても、何であるか、分かりました。やはり、人形だったのです。
聖書の中に、祈りに関する約束が多く書かれています。
「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7・7)。
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタイ21・22)。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33・3)。
どれも素晴らしい約束ですが、問題は、素直な信仰をもって、これらの約束を受け入れることができるかどうか、ということです。大人になると、私たちは素直さを失って、ひねくれた考え方に陥ってしまうことがあります。「私の祈りなど聞かれるはずがない」とか、「人間は自分で努力して問題を解決すべきであって、祈りという安易な手段に頼るべきではない」とかいうような考えを持つ訳ですが、一見して、成熟した大人の、バランスの取れた考え方のように見えるかも知れません。しかし、その背後には、様々な人生の傷や、人間のプライドが隠されています。そして、私たちはその頑なな心の故に、大きな損をしています。神の約束は真実です。素直な気持ちで、お祈りをすれば、私たちの理解を越えた大いなる事が起きます。大人のプライドを捨てて、あなたも祈ってみませんか。