スチューアートというアメリカ人の話です。スチューアートはある時、車を運転していて、スーザンという18歳の女の人を引いて、死亡させてしまいました。酔っ払っていて運転していたスチューアートは、事故の直後に逮捕され、刑務所に入ることになりました。しかも、スーザンさんの家族から民事訴訟を起こされて、150万ドル(約1億5000万円)の賠償を求められました。結局、家族の勝訴になったのですが、家族は最後に、奇妙な要望を出しました。150万ドルではなく、936ドル(約10万円)だけを払えば良いと言って来たのです。但し、18年間、毎週金曜日に、家族宛に小切手を書いて、1ドルずつ、払ってほしいと言うのです。金曜日は、スーザンさんが亡くなった日です。
150万ドルという大金を払わずにすんだスチューアートは、ほっと胸を撫で下ろしました。とても得をした気分で、彼は毎週、1ドルの小切手を、スーザンさんの家族のところに郵送しました。初めはどうということはなかったのですが、この毎週、繰り返さなければならないということが段々と苦痛になって来ました。小切手を書くたびに、自分の罪を思い出すからです。彼はそのうちに、憂鬱になり、とうとう、小切手が書けなくなってしまいました。それで、また、裁判沙汰になりました。スチューアートは、この罰は重すぎると、裁判官に訴えましたが、裁判官の判決は、「毎週、1ドルずつ、お金を払え」ということだったのです。
自分の罪をずっと、負い続けなければならないということは、確かに苦しいことです。私たちは、人の命を奪うという罪は犯していないでしょうが、人を傷つけたり、恨んだり、憎んだり、赦せなかったりしたことがあります。私にもあります。そして、人に精神的、肉体的な苦痛を与えてしまったことを思い出す度に、胸が痛くなります。恥ずかしくて、仕方がないのです。しかし、聖書は言っています。
「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ人への手紙8章1節)。
「罪に定められることはない」とは、つまり、神の前で有罪判決を受けることはないということです。キリストにある者は、一切の罪が赦されています。清められています。私たちは義と認められているのです。
コーヒーカップに、コーヒーを入れて、ふたをすると、当然のことながら、中のコーヒーが見えなくなります。見えるのはカップだけです。同じように、キリストにある者は、その全存在が、キリストの力やキリストの臨在に包まれています。言い換えれば、クリスチャンはキリストと結ばれている、あるいはキリストと一つになっているのです。ですから、父なる神の前に立つ時、神は私たちの罪など見えません。見えるのは、キリストの義だけです。キリストが全人類の罪を背負ってくださり、その代価を完全に支払ってくださったという事実だけが重視されます。だからこそ、クリスチャンは何の恐れもなく、また自分の罪を意識することもなく、確信をもって神の前に出られるのです。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(ヘブル人への手紙10章19節)。
あなたの罪の重荷は、取り除かれていますか。