ローマ法王がニューヨークで国連の事務総長との約束に遅れそうになっていました。そこで、リムジーンの運転手に、優しく声をかけました。
「悪いけどね、もうちょっとスピードを出してくれないか。」
ところが、運転手は答えました。
「いや、申し訳ございませんが、もう一回スピード違反で捕まったら、免許が取り消しになります。妻も、3人の子供もいますから、職を失うと、本当に困ります。ご理解ください。」
すると、車を停めるように言ってから、ローマ法王は車を降りて、運転主席のドアを叩きました。「どうされましたか」と聞くと、「あとは、私が運転するからどいてください。」と言うのです。驚いた運転手は、ハンドルをローマ法王に譲り、後ろの座席に移動しました。ローマ法王は猛スピードでニューヨークの町を走り抜けました。しかし、余りにも乱暴な運転だったので、パトカーに止められました。警官は、仲間に言いました。
「何様だと思っているか知らないが、絶対に許さん。交通ルールを守らないやつがどうなるか、思い知らせてやる。」
しかし、1分もしないうちに、警官は動揺した顔をして、仲間のところに戻ってしまいました。
「どうした。チケットを渡さなかったか。」
「いやー。こいつは大物だ。超大物だ。」
「一体、誰だ。ニューヨーク市長か。」
「いや、もっと大物だ。」
「じゃー。ニューヨーク州の知事か。」
「いやー、もっと大きい。」
「まさか、大統領か。」
「いやー、もっと大きい。」
「えー、大統領よりも大きい人と言ったら、誰がいるの。」
「いや、誰が乗っているかはよく見なかったけど、何しろ、ローマ法王が運転手を務めているんだから。」
しかし、後ろに乗っていた運転手は、どんな気持ちで、ローマ法王と警官との会話を聞いていたのでしょうか。ローマ法王に対する申し訳ない気持ちと、感謝の思いで心が一杯だったのでしょう。
クリスチャンも、神の恵みを経験する時に、同じような気持ちになることがあります。ダビデ王は、詩篇の中で、次のように歌っています。
「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(8章3~4節)。
造り主なる神は、ただご自分の愛と哀れみのゆえに、人間を覚えてくださり、その祈りに耳を傾けてくださいます。一羽の雀でさえ、神の前で忘れられることはありません(マタイ10・29~31)。あなたも、神に愛されています。その力強い御手の中で、守られています。あなたの人生のハンドルを神に譲り、肩の荷を下ろしませんか。周りの人々も、わっと驚く人生になるでしょう。