アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月9日
数年前から、私は三つのブライダル事務所のために、東京都内でキリスト教の結婚式の司式をしています。家族を養うために引き受けた仕事ですが、途中から素晴らしい伝道のチャンスだと考えるようになりました。これまで、1千件以上の結婚式をやっていますが、平均して、60人ほどの方々が集います。ほとんど未信者です。賛美歌も歌うし、祈りもするし、聖書からのメッセージも語ります。真の愛とは何か、結婚とは何か、などのテーマで3-4分、お話をするのですが、新郎新婦は勿論のこと、ご家族の方々や友人たちも、聖書のみことばに感動します。間違いなく、キリスト教に対するイメージが格段に良くなるのです。日本の福音化のために、欠かすことのできない種蒔きではないかと思います。ざっと計算して、これまで6万人の方々の心に、みことばの種が蒔かれたということになります。主なる神は、不思議なみわざをされるお方だと、つくづく思います。伝道集会を開いて、チラシを何千枚も配っても、数人の人しか来ないのに、一般の企業が建てたチャペルに、何百人もの未信者が集まって、喜んで聖書の話を聞くのです。不思議です。どんなに伝道が困難な国であっても、主のみわざを待ち望むなら、必ず道が開かれます。私はそう信じています。大事なのは、人間的な知恵や肉的な方法に頼らずに、聖霊を待ち望むことです。
昨日から、お話ししているように、私がセカンド・チャンスを受け入れられない第一の理由は、それが聖書から逸脱していると考えるからですが、この教理に関して気になる点が他にもあります。その一つは、セカンド・チャンスが日本のリバイバルの鍵とされていることです。セカンド・チャンスの支持者たちは、この教えを説くことによって、「キリスト教は、亡くなった先祖を地獄から救うことができない不条理な宗教だ」という一般人のイメージを打ち破ることができると言います。地獄の教理につまずいてクリスチャンにならない人や、親族・先祖と別の場所に行くのは申し訳ないという気持ちが強くてキリスト教への回心をためらう人に対して、納得のいく説明をし、亡くなった先祖にも確かな希望があると語れば、キリストを信じる者の数が急増するはずだ、と言うのです。こう主張する牧師たちの中に、私が長年、親しく交わりをさせていただき、尊敬させていただいていた著名な先生もいらっしゃいます。名前を言うのは控えさせていただきますが、その先生の教会の礼拝に、1000人以上の人々が参加しています。「キリスト教は暗い、ダサい、つまらない」というイメージを変えるために、一生懸命に働いてこられた先生です。極力、未信者に分かりやすく、受け入れやすいメッセージを語ってこられた先生です。また、教会の新来者に対する配慮を決して忘れない方です。成功した牧師として、一目置かれています。確かに、見習うべき所が沢山あると、私も思っています。しかし、いくら人々に受け入れやすいからといって、セカンド・チャンスの教えを広めても、それが非聖書的な教理であるなら、神に祝福されるどころか、聖霊を悲しませる結果を招いてしまうのです。エペソ人への手紙4章:11-15節をお読みします。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」
健全な伝道も、また健全な教会形成も、真理を語ることが肝心です。真理を語ることによって、信仰が成長します。真理を語ることによって、教会が様々な間違った方向に走らないように守られるのです。伝道上、都合が良いから、セカンド・チャンスを語ろうとは、私は決して考えません。まず、聖書に基づいた真理であるかどうかを慎重に調べるべきです。真理だけが人々を救いに導き、健やかな霊的成長を可能にします。真理でない教え、つまり、異端は、滅びをもたらすだけです。「愛をもって真理を語り」とあります。人に対して愛を持っているなら、どうしてもその人に真理、真実を語らなければなりません。例え、相手にとって受け入れにくい話であっても、真理を語ることが本当の親切であり、本当の愛なのです。
言うまでもなく、真理を語ることは、場合によっては非常に難しいことです。私は、数百人のカルト信者とのカウンセリングの中で、そのことを実感しました。いわゆるカルト救出カウンセリングは、多くの場合、家族の協力のもとで行われます。家族は、本人がカウンセラーに会って、話を聞くように説得します。本人の承諾を得てから、カウンセラーが部屋に入るのですが、承諾をしたと言っても、本人は心からカウンセラーを歓迎する訳ではないのです。家族に頼まれたから、仕方なく、話を聞くというケースがほとんどです。カウンセラーのことを、自分の信仰を奪うために来たサタンの使者だ、敵だと見ています。そのような厳しい条件の中で、カウンセラーは相手の信用を得ながら、相手の信仰の問題点や、組織の欺瞞性を指摘していかなければなりません。これは至難の業です。「素晴らしい信仰ですね。きっと神様が喜んでおられることでしょう」というようなことを言っては、全く埒が明きません。知恵と配慮をもって、真理を語らなければならないのですが、真理には力があります。真理を語る時に、奇跡が起こるのです。ちょうど10年前(1998年)に手掛けた救出カウンセリングのケースを思い出します。エホバの証人になっていた久住聡子さんという30代の女性の救出です。聡子さんは数年前からエホバの証人との勉強を始め、1997年の秋に、エホバの証人として洗礼を受けられた方ですが、そのご家族、特にご主人が聡子さんの異常な言動を見て危機感を覚え、私に奥さんの救出を依頼して、私のところに来られた訳です。家族の保護の元で、説得が始まりました。最初はおもに、エペソ書から、講解説教をしました。エペソ書が好きだと、聡子さんがおっしゃっていたからです。徐々に、ものみの塔の教理の矛盾、組織の欺瞞性について話し始めました。すると、三日目から拒絶反応が出て、奥さんがトイレに逃げ込む場面もありました。しかし、皆でトイレの前に集まって何とか話が出来ました。ところが、5日目に元エホバの証人を連れて行くと、ものすごい抵抗が始まったのです。それから三日間、私たちに背を向けたり、顔を背けたり、全く口を聞いてくれなかったりしました。そしてついに、自殺未遂を図ったのです。食器用の洗剤を飲んでしまいました。幸い、大事に至らなかったのですが、その後しばらくは、生きているのか死んでいるのか分からないような虚脱状態で、質問を投げかけても、「どうでも良い」、「分からない」の言葉を連発するだけです。こちらも精神的にも肉体的にも疲れて来て、「これはもう、駄目なのかも知れない」と思い始めました。しかし、10日目の夕方、レーナ・マリヤさんのビデオをかけてみることにしました。すると、大きな変化が起きたのです。勿論、本人は見ようとしないのですが、レーナ・マリヤさんの証しや賛美が耳に入りました。ビデオが終わった後、四日ぶりに、聡子さんが顔を見せてくれました。そして、自分から色々と、質問を始めたのです。質問をするということは、マインド・コントロールが解けてきていることのしるしで、自分で考え始めているという意味ですが、次の日の夕方、「エホバの証人をやめる」と言ってくださったのです。久住ご夫妻は、救出カウンセリングが始まる1年半以上も前から、別居しており、カウンセリングが失敗に終わったら、確実に離婚して家庭が崩壊するというシナリオになっていたのですが、聡子さんのマインド・コントロールが解けた後、ご主人との関係が修復して、まるで新婚夫婦のような感じでした。久住ご夫妻には、3人の小さな男のお子さんがいます。話し合いをしていた部屋に、お子さんたちの写真が飾ってありました。その写真を見るたびに、何とか、子供たちのためにも、カウンセリングを成功させなければならないという責任感、大きな重荷を感じましたが、主の恵みによって家族がもう一度、一つになれたのです。真理には力があります。
ですから、私たちの語るメッセージが、聖書の真理に基づいているかどうか、常に細心の注意を払うべきです。真理でない言葉を語って、人々を喜ばせても、あるいは人々を集めることができたとしても、それは決して真の救いや成長にはつながりません。真理でない言葉によって、立派な霊的家を建てても、それは砂を土台としているものなので、やがては崩壊します。聖書の真理に基づいていない伝道方法や牧会も同じです。25年前から、日本各地の教会から異端セミナーの依頼を受けて、御用をさせていただくことになりました。色々な牧師の方と交わって、また、沢山の教会を見させていただいて、自分の中で少しずつ、あることがとても気になりだしました。それは、一部の教会に、カルト的な体質が見られるということです。具体的に言うと、牧師が絶対的な権威をもって、またマインド・コントロール的な手法によって信者たちを支配しているという問題です。私は長年、エホバの証人などと接して、また彼らの出版物を読んで、マインド・コントロールの仕組みやテクニックを熟知しているつもりです。まず、神の権威を主張する指導者がいます。その人は神の代弁者、あるいは神の油注がれた器とされているので、そのリーダーの言うことを聞いていれば、神のみこころにかなった生き方ができて、神の祝福に預かることができるというのです。しかし、その人に逆らえば、それは神に逆らうことになるので、不従順な人は必ず、神に裁かれるということになります。こうした脅しに屈して、神の器に依存するようになった信者は、自分で物事を考えたり、判断したり、決断したりする力が低下していきます。やがて、リモコンで操作されるロボットのような存在になるのです。ここに、マインド・コントロールの最大の悲劇があります。人間としての成長が止まってしまうことです。私は、このような巧妙な手を使って、自信のない現代人を奴隷にするのは、エホバの証人やモルモン教、あるいは統一協会だけだと思っていました。しかし、驚いたことに、マインド・コントロールを使う牧師たちもいたのです。
先日、30代と思われるあるクリスチャン男性から電話がかかってきました。その方は、健全なプロテスタント教会に属していましたが、同じ職場に別の教会に通っている人がいて、その人に誘われて、その人の教会の礼拝に一度、出てみたそうです。すると、礼拝後すぐに、牧師にこう言われたというのです。
「あなたは、聖霊に導かれて、この教会に来ました。ですから、今後も続けて、この教会の礼拝に出れば神に守られますが、来るのを止めてしまえば、あなたの身の安全は保障できません。来なくなった人がよく死ぬのです。」
電話をかけてくださった男性は、不安そうに「本当に、そういうことがあるのでしょうか」と尋ねてきたのです。私はその偽牧師に対する憤りが込み上げてきました。また、これもつい最近、聞いた別の教会の話ですが、このように公言している牧師がいるそうです。
「私は何人もの死人を、祈りによって生き返らせました。そのしるしが、私が神から特別に油を注がれた器であることの証拠です。私の言うことを聞いていれば、あなたも神の祝福に預かるでしょう。」
こう主張してはばからない牧師の教会に、多数の在日中国人がいるそうです。彼らはビザが切れていますが、牧師の命令によって日本に不法滞在を続けています。その目的は、日本で働いて、献金を牧師に捧げるためだということです。昨日、聖神中央教会の話をしましたが、牧師が10代の女の子数十人に性的虐待を加えたという前代未聞のスキャンダルは、永田保の権威主義にその原因があります。彼は教会の中で、神の偉大な指導者として崇められて、その言うことは絶対でした。ですから、女の子たちも、何を求められても、「ノー」とは言えなかったのです。このような話は山ほどあります。だからこそ、日本のマスコミも教会のカルト化問題に注目し始めた訳ですが、牧師たちは一体なぜ、権威主義に走ってしまうのでしょうか。
一つの大きな理由は、効果が抜群だからです。自信のない現代人は、権威をもって指示してくれる人を求めています。「自分で考える必要はない。私の言うことを聞いていれば良い」という人が現れれば、喜んでついて行きます。「奉仕をしなさい」と言えば奉仕をします。「早天祈祷会に出なさい」と言えば、出ます。「伝道しなさい」と言えば、伝道します。「献金しなさい」と言えば、献金をするのです。それが正しいことだと納得して、喜んで教会に仕えているのであればいいのですが、喜んでいるように見えて、実は単なる演技であり、神の器に認められるように、無理をしているだけなのです。また、言うまでもなく、何も考えずに、指示どおりに動いているだけですから、そこには何の成長もないのです。しかし、勘違いをしている牧師は、立派な信徒が育っていると思っています。自分の牧会が成功していると考えています。また、「素晴らしい牧師だ」と、外部から評価されることもよくありますが、教職者の務めは、何も考えない奴隷を作ることではありません。霊的に自立した大人の養成です。もう一度、エペソ書4章13節を見てください。「おとな」とは、人に頼らずに、自分で考えて、自分で判断して、自分で決断を下せる人です。人に言われなくても、自ら進んで行動できる人です。また、自分でやったことに対して、最後まで責任が持てる人です。教職者は、このような自立した大人の養成に力を注ぐべきです。言うまでもなく、このような弟子作りには、大変な時間とエネルギーと忍耐が必要です。また、一度に、沢山の弟子を養成できる訳ではありません。そこで、私たち人間は、「もっと簡単な、効率の良い方法はないだろうか」と模索するようになります。聖書の真理ではなく、効率アップが優先されます。ここに、セカンド・チャンスの問題と、教会のカルト化問題との共通点があります。伝道上、都合が良いから、セカンド・チャンスを語る。より多くの人を集めて、動かすことができるから、牧会にマインド・コントロール的な手法を取り入れる。非常に危険なことです。真理への愛を失うと、惑わしの力が働くようになるからです。
「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」(2テサロニケ2:9-11)。
牧師は、成功や名誉や実績を追求するあまり、真理を追究しなくなるようなことがあってはなりません。先生方もよく分かっておられることだと思いますが、これは、牧師にとっては大きな誘惑です。牧師も傷ついています。そのために、セルフ・イメージも悪くなっています。できることなら、大きな教会を作って、立派な会堂を建て、成功した牧師として認められたいのです。余談になりますが、500人以上の教会を作った牧師たちのエリート・クラブがあるという噂を聞いています。入会している人には申し訳ありませんが、そのことにどれほどの意味があるのだろうかと思ってしまいます。一生、その仲間入りが果たせそうにないという悔みからそう言っている訳ではありません。この世的な基準の設定に反発をしているのです。大勢のファンを集めることに成功した人よりも、地道に弟子作りに励んでいる無名の牧師のほうが立派だと思います。
何年か前の話になりますが、日本のキリスト教会でかなり期待されていた有名な伝道者と親しく交わりをしていました。彼の教会に招かれて、メッセージや異端セミナーもさせてもらいました。ある日のこと、彼との会話の中で、私が協力牧師をしている教会のことを聞かれました。開拓何年なのか、礼拝出席者数は何人なのかなどと質問されたので、何も考えずに、正直に答えました。
「開拓が始まってから、10年経っています。今のところ、30人くらい、集まっています。」
すると、「早く、100人教会にしなさい」と言われました。勿論、私を激励するために言ってくださった言葉だと思いますが、それをどう理解したら良いか、戸惑いました。100人教会になれば、それは嬉しいことですが、私は教会の成長は、聖霊のみわざだと信じていたので、「100人教会にする」というのは、とても傲慢な言葉に感じられるようになりました。有能な牧師は、何が何でも、とにかく努力をして、100人教会を作る。強いリーダシップを発揮して、信者たちを引っ張っていく。そこで初めて、一人前の牧師として認められる。もしかしたら、一部の牧師たちの間で、これが常識とされているのではないかと思うようになったのです。ちなみに、その伝道者は数年後に、女性スキャンダルを起こして、ほとんど、名前を耳にすることがなくなりました。
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべとなりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』」(マルコ10:42-45)。
ここに、聖書的な指導者の姿が描かれています。イエス様の足跡に従う指導者は、人々を支配しません。人々の上に権力をふるったりもしません。しもべとなって、人々に仕えるのです。
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてそうするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです」(1ペテロ5:2-4)。
ここにも、「その割り当てられている人たちを支配するのではなく」と書かれています。これはつまり、自立したクリスチャンの養成に関する勧めです。牧会者は、奴隷を作るように言われているのではありません。むしろ、そのような楽な牧会を避けるように戒められているのです。今あえて、「楽な牧会」という言葉を使わせていただきましたが、考えてみれば、独裁者のように命令を出して、人を動かすということは、ある意味では簡単なことです。人々に動機づけを与え、納得させて、自ら喜んで行動するように指導することのほうが、はるかに難しいと言えるのではないでしょうか。そのために、まず、指導者が自ら、模範とならなければならないからですが、これこそ、主から与えられたチャレンジです。「むしろ群れの模範となりなさい」と3節の後半に書かれている通りです。
6年前に、『教会がカルト化するとき』の著書を出した時に、「牧師の霊的権威はどうなるのか」と、多くの方から聞かれました。「指導者に従いなさいと聖書に書いてあるでしょ」と言われることもありました。確かに、今読んだ個所の次の5節にも、「長老たちに従いなさい」とあります。ですから、私は「牧師に従うな」と語っている訳ではなく、霊的権威の乱用について警鐘を鳴らしているだけです。
私がカウンセリングをした、ある姉妹の話です。その女性は、独裁者のように振る舞っている牧師の行動に対して、何度か声を上げようとしましたが、その後、教会の公の文書の中で、名指しで「サタンの手先」と書かれてしまったそうです。また、講壇から、こんなメッセージが語られているということです。
「例え牧師が間違っていても、教会員は従わなくてはいけない。神は、教会員にその責めを負わせない。負うのは牧師だから。神は牧師にビジョンを与え、信徒を導くよう、その器を選んだのだから。牧師が間違っていて、信徒が正しい、ということもある。しかし、神は、信徒ではなく、その牧師を器として選んだのだから、神が結果的に『牧師が正しい』という結果をくださる。」
このような屁理屈によって、沈黙させられている羊が沢山いると思いますが、それにしても、霊的権威を乱用して、羊を痛めつけているにせ牧師たちにとっては、非常に都合の良い考え方です。また、言うまでもなく、これは聖書の曲解です。確かに、聖書は指導者に従うように、私たちに教えています。しかし、それは、指導者が聖書的な指導者としての条件を満たしている場合のみです。しもべとして群れに仕え、群れの模範となり、聖書を忠実に語っているなら、私たちは勿論、指導者に従うべきですが、権威を振りかざし、人の話に耳を傾けず、勝手な要求を出し、みことばに反する命令を下すなら、その指導者に従ってはならないのです。つまり、聖書的な従順は、自分の頭を捨てて、自分の人生に対する責任を放棄し、何も考えずに、ただ闇雲に従うということではないのです。もし、それが聖書が教えていることであれば、私たちは「神の器だ」と主張する、どのような人間にも従わなければならなくなってしまいます。そうです。神学的な教育を受けていようといまいと、新生体験があろうとなかろうと、精神状態がどうであろうと、「私は神の選んだ器です」と主張する人がいれば、従わなければならないということになってしまうのではないでしょうか。果たして、主がこんなことを私たちに望んでおられるのでしょうか。そんなはずはありません。なぜなら、「にせ使徒、にせ預言者、にせ教師に注意せよ」と、沢山の聖句にはっきりと書かれているからです。結局、私たちは偽物と本物とを見分けられるようにならなければならないのです。
ペテロのみことばに戻りますが、私はこの3節に、聖書的牧会の原点があると思っています。独裁者となる誘惑を振り切って、しもべに徹することです。しかし、牧会に伴う傷が多くなればなるほど、疲れやストレスが溜まれば溜まるほど、世的な知恵が身に付けば付くほど、私たちは権威を振るいたくなります。
「牧師の言うことが聞けないのか。」
「私は、あなたがた一般信徒よりも、聖書がよく分かっているのだから、くだらない質問をしたり、疑問を抱いたりしないで、素直に私の考えに従えばいい。」
「牧師の言うことを聞かない人は、聖霊に背いている。分派の霊に取りつかれている。」というような言葉を言いたくなります。また、一旦、絶対的な権力の味を占めてしまうと、また王様扱いを経験すると、なかなか、やめられなくなります。余談になりますが、永田保が海外に出かける時など、教会のスタッフ数十人が先に空港に行き、ターミナル・ビルに入り、2列に並び、永田はその真ん中を通りますが、その時、スタッフ全員が深々とお辞儀をして、「行っていらっしゃいませ」と大きな声で見送ったそうです。しかし、上には上がいます。東北のある大きな教会では、スタッフが牧師室の前を通る時に、お辞儀をするようにと訓練されています。牧師がいても、いなくても、です。その教会で牧師が何かに視線を向ければ、みんな、「先生は何を見ておられるのだろうか」とその視線を追います。牧師が指を動かせば、みんな、飛び上がるのです。これは、大袈裟な話ではありません。神の権威を主張する人は、その権威を認める人々に対して、驚くほどの影響力を持つようになります。神の代弁者とされている訳ですから、その言うことは絶対です。どんなことを言っても、返って来る返事は、「はい」です。どんな要求をしても、「ノー」と言う人はいません。極端な話のように聞こえるかも知れませんが、「新しい車が欲しい」と言えば、何日もしないうちに、新しい高級車が家に届けられるのです。ペテロは、このような異常事態が発生する可能性があるということを知っていました。だからこそ、2節で、「卑しい利得を求める心からではなく」と牧会者に注意を与えています。このような誘惑に打ち勝つためには、どうしたら良いのでしょうか。「私は主と共にいる者だ。私はキリストにある者だ」という信仰の原点、聖書的アイデンティティーに立ち返ることです。第3セッションの復習になりますが、キリストの十字架のゆえに、完全に神に受け入れられて、義と認められている恵み、主と共に歩んでいれば、主が私たちの手のわざを祝福してくださり、みこころにかなったことをなしてくださるという恵み、人の評価がどうであろうと、主が私たちの奉仕を喜んでくださり、それに報いてくださるという恵みに立つことです。
「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです」(1ペテロ5:4)。
20世紀の初め頃の話ですが、ある有名な伝道者がニューヨークから舟に乗って、ヨーロッパに行きました。そして、ヨーロッパの各都市で伝道集会を行なったのですが、その一つ一つが素晴らしく祝福されて、多くの人々が救われました。いよいよ、集会のスケジュールを終えて、アメリカに帰ることになりましたが、舟の中で、伝道者は考えました。「ニューヨークのクリスチャンたちはヨーロッパの集会のうわさを聞いているだろうから、きっと港まで迎えに来てくれているだろう。」 港に着くと、大勢の人々が集まっていました。ブラス・バンドの人たちもいました。皆、手を振ったり、大きな声で叫んだりしています。伝道者は思っていた以上の出迎えに、感動しました。しかし、次第に、この人々が自分を迎えに来たのではないということに気が付きました。たまたま、アフリカの狩猟旅行から帰る、ルーズベルト元大統領が同じ舟に乗っていたのです。がっかりした伝道者は、電車に乗り換えました。そして、電車の中で、彼は思いました。「教会の人たちはきっと、駅まで迎えに来てくれているだろう。そうだ。みんな、駅で待っているに違いない。」駅に着いてみると、やはり、沢山の人々が集まっていました。ブラス・バンドの人たちも並んでいました。ところが、分からなかったのは伝道者ばかりで、また大統領が同じ電車に乗っていて、同じ駅で降りることになっていたのです。そうです。人々はルーズベルト元大統領を迎えに来ていたのです。伝道者は一人で、自分の家に向かって、歩き始めました。重い荷物を持って、既に暗くなっていた町の中を歩きながら、彼は祈りました。「神様、これは不公平ではありませんか。人々は狩猟旅行から帰った大統領のために大勢で迎えに来るのに、主の御用のためにヨーロッパまで行って来た私を迎える人は一人もいません。故郷に帰っても、何の出迎えもないのは、寂しすぎるのではありませんか。」 こうして泣きながら祈っていると、聖霊の声が、彼の心に響きました。「我が子よ、あなたはまだ、自分の故郷に帰ってはいない。」そうです。私たちはまだ、故郷に帰っていません。私たちの故郷は、天国です。この世にあっては、私たちを迎えに来てくれる人はいないかも知れません。私たちの労は報われないかも知れません。しかし、それは天に帰るまでの話です。天の故郷に帰ったら、私たちは主からのねぎらいの言葉をかけていただけるでしょう。豊かな報いがいただけるでしょう。
「愛をもって真理を語り」とエペソ書に書かれています。ここに、日本の福音宣教の希望があると私は信じています。真理の伝達と、真理の実践です。セカンド・チャンスは伝道に使えそうな教えに聞こえるかも知れません。素晴らしい教えだと、多くの人々に歓迎されるかも知れません。しかし、聖書に基づいた真理ではないので、セカンド・チャンスを語ったところで、日本に真のリバイバルが起こるはずはありません。聖霊は、真理の御霊です。真理が語られる時にだけ、働いてくださるのです。また、教会に権威主義的な体質を作ったほうが、教会員もまとまるし、みんな奉仕熱心になるし、多く捧げるようになるし、大きな働きができるという考え方がありますが、沢山の人を動かすこと、あるいは大きな働きをすることが必ずしも、主の栄光を現すとは限りません。主のみこころは、信徒が健全なみことばによって養われ、自立した霊的おとなに成長することなのです。