「セカンド・チャンスを検証する: 未信者の死後の救いはあるのか」パート2
2012.2.16「セカンド・チャンスを検証する: 未信者の死後の救いはあるのか」パート4
2012.2.16アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日
最近、自分のアイデンティティーのことで悩むことがあります。「あなたはハーフですか」と、何度も人から聞かれることがあります。また、不思議なことに、真顔で「日本人ですか」と質問してくる人もいるのです。アメリカに帰る時には、「東洋人っぽい顔だね」と言われたりします。32年も日本に住んで、ずっと日本語で生活をしていれば、多少、顔も変わるのでしょうか。実は、最初に来日した時、私はそのように望んでいました。いかに日本人のようになり、日本人のように日本語を話し、日本人に受け入れてもらえるか、そのことばかりを考えていました。しかし、今、「あなたは日本人ですか」と聞かれると、びっくりすると同時に、戸惑いを感じます。「私は何人なのだろうか。アメリカの国籍を持っているのに、日本人になってしまっても良いのだろうか」と悩んだりしますが、いつも、慰めになる聖句があります。
「私はすべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」というパウロの言葉です(1コリント9・22)。
私の出した結論は、主から与えられた才能を生かし、人々に仕え、神のみこころを行なうことができれば、何人であっても良いのではないか、ということです。神と共に歩む限り、胸を張って、また自信を持って、堂々と生きていけます。モーセが主の召命を受けた時に、「私はいったい何者なのでしょうか」と主に尋ねています。主の答えは、「わたしはあなたとともにいる」です。「私は主と共にいる者だ。」これが私のアイデンティティーです。
アイデンティティーの話と、セカンド・チャンスの話は関係がないと思われるかも知れませんが、実は、深い関係があるように私は感じています。セカンド・チャンス論が浮上して、また広がっている一つの理由は、日本人のアイデンティティーの危機にあるのではないかと思うのです。28年間、カルトの問題とかかわってきた中で、私は多くの若者と接したり、カウンセリングをしたりしています。色々なケースがありましたが、ほとんどの人に共通している問題が存在しています。自信がない、自分のアイデンティティーが分からない、これといった信念がない、自立していない、ということです。現代人の主だった特徴は、自信の無さだと思います。自信がないからこそ、カルトに引っ掛かってしまうのです。彼らは、精神的な安定、心の平安を求めて、カルトに入信します。この世の中が複雑になり、洪水のように情報が氾濫している中で、多くの人々は不安を覚えています。何を信じたらよいか、どんな生き方をすれば良いか分かりません。多くの現代人にとっては、自分で考えて判断し、自分の人生に対して自分で責任を持つということは、とても苦手なことなのです。その理由については、様々な説が唱えられています。まず、情報社会が受け身の人間を作っていると言われます。また、詰め込み教育が考えない人間、自分で考えようとしない人間を生み出してきたとも言われています。さらに、生活が便利になるに連れて、面倒臭いことには手を出したくない、なるべく楽をしようという若者が増えていると聞きます。こうしたことを考えますと、現代人は影響されやすく、またコントロールされやすい性質を持っていると言えるでしょう。彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのです。複雑な今の世の中で、多くの人間は迷っています。特に、経験に乏しく、人生問題を真剣に考える機会を持ちにくい若者たちは、自信を失っています。権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教団体には、彼らは非常に弱いのです。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する宗教団体があると、その言葉に飛び付くのです。自分で考える苦悩を省くこともできるし、安心感を覚えることもできるからです。
しばらく前に、とても奇妙な話を聞きました。ある宗教団体に属する若者が、グループの指導者と共に、長野県に行ったそうです。そして、「せっかく信州に来たのだから、おいしいソバでも食べよう」と指導者が誘うと、若者は黙って、一緒にある店に入ったのですが、その若者は、実は、おソバに対するアレルギーがあったのです。さて、その青年はどうしたのでしょうか。おソバを食べて、救急車で病院に運ばれることになってしまった、というのです。「神の人の誘いだから、断ってはいけない」と、若者は考えたそうです。そして、その「命懸けの従順」が教団の中で美談になっています。
このように、自分で考えることも、判断することもできない、若者が実に多いのです。自分のアイデンティティーなどなく、教祖のリモコンで操作されるロボットのような存在になっているのです。勿論、これはカルトだけではなく、日本社会のあらゆる所、つまり家庭においても、学校においても、職場においても見られる現象です。自分の個性を抹消し、自分をグループに合わせ、グループの権威に従うように圧力がかかります。個人の問題、個人の気持ち、個人の希望などは二の次です。グループの利益やグループの和が最優先されます。そして、グループの方針に従わない者は、切り捨てられるのです。これは言い過ぎになるかも知れませんが、日本という国そのものが、一つの巨大なカルトになってしまっていると感じることさえあります。自分を否定して、グループのために多大な犠牲を払っている人々は、それなりにグループからの評価を得たり、報酬も与えられたり、あるいは生き甲斐を感じたりします。しかし、色々な方とカウンセリングをしていると、彼らは本当に幸せなのだろうかと考えてしまいます。会社の利益のためにあくせく働くサラリーマンがいます。子供がまだ起きないうちに家を出て、早朝の満員電車で会社に通う。納得がいかなくても、何も言わずに、上司の命令に従わなければならない。残業させられても、文句が言えない。休暇が取れるはずなのに、皆の顔色を見て、遠慮する。最終電車で家に帰って、子供の寝顔を見てから布団に入る。このような生活では、健全で幸福な夫婦関係も、親子関係も、築けるはずがありません。しかし、会社のためだから、仕方がないということで片付けられてしまいます。皆さん、個人の犠牲がどんなに大きくなっても、グループの利益や拡大が優先されるというのは、これはまさにカルト的体質です。今現在、日本人の大多数は、この体質に疑問を感じながらも、仕方のないこととして受け入れています。しかし、この体質に反抗している人々の数も増えています。日本のひきこもり人口がどれくらいになっているか、ご存知でしょうか。ひきこもりは120万人もいると推定されています。彼らは自分の部屋に閉じこもって、何ヶ月も、あるいは何年も出て来ません。テレビを見たり、マンガを読んだり、ビデオ・ゲームで遊んだりして、時間を過ごします。親が食事を作って、ドアの前に置きます。あるいは、食費を与えて、好きなものを出前で頼んでもらったりしますが、顔を合わせることがほとんどありません。ひきこもりの原因として、幾つかのことが考えられます。学校でいじめられたこと、親との共依存的な関係の中でアダルト・チルドレンにされてしまったことなどですが、かなりのケースに共通している問題は、自分の個性を否定して、自分をグループに合わせることができなかったということです。自分らしく生きようとしたけれども、村八分にされてしまった。傷つけられてしまった。だから、自分の個性を無くして、グループのためにひたすら犠牲を払う人生は嫌だと思って、また、自分でない自分を演技することがもうコリゴリだと言って、自分の世界を作ってしまう訳ですが、日本の社会の在り方に対する、彼らなりの抵抗だと言えるのではないでしょうか。「私という一人の人間を見てください。私のアイデンティティーを認めてください」と、彼らは叫んでいるのですが、学校や保険所は全くと言って良いほど、彼らの叫びに耳を傾けません。訪問することもしません。
聖書教育が進んでいる国では、人の個性が尊重されます。人が個人として自立した人間になることが、教育の目標とされます。そして、それが民主主義、あるいは資本主義の基本であると言われているのです。今、激変する世界で生き残る企業は、従業員をロボットのように動かしている企業ではなく、独創的な発想ができる人間を養育している企業です。人間はそれぞれ、ユニークな者として、神に造られています。人と違って、当たり前です。顔も、声も、才能も、考え方も皆、違います。ですから、人間としてのアイデンティティーというのは、神から与えられた賜物を発見して、それを神のために、また人のために活かす時に確立されます。アイデンティティーは、神と共にいる私です。しかし、日本の社会では、アイデンティティーは、グループと共にいる私です。あるいは、グループの中に埋もれて、見えなくなった私です。グループのために自分を完全に否定した私です。前置きがとても長くなってしまいましたが、アイデンティティーの問題と、セカンド・チャンスの問題との関連について、考えてみたいと思います。日本人は幾つかのグループに所属することによって、アイデンティティーを見出そうとしますが、その一つは、日本という国家です。日本人という国民の一人として、生きています。このグループの中で、自分がどうあるべきかという責任を持つと同時に、ある種の安心感、または誇りを持っています。この国民的プライドに、セカンド・チャンスが広がった要因があるのではないかと思うのです。つまり、セカンド・チャンスを支持することによって、「私たちの先祖はクリスチャンではなかったけれども、立派な生き方をしていたから、きっとハデスの慰めの場所で福音を聞き、やがて救われるはずだ」という論理が成り立ちます。一方、セカンド・チャンスがないとした場合、キリストを信じなかった先祖たちは滅びたということになるので、日本人としてのプライドに傷が付くのです。もっと具体的にお話ししましょう。これは、日本人の過去の偶像崇拝の歴史を罪として認めるか、認めないかという問題なのです。ローマ人への手紙1章18-25節を読みましょう。
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」
このまま、日本という国に当てはまる聖句ではないかと思います。日本はこれまで、造り主なる神に背き、偶像を崇拝し、神の怒りを買ってきました。そして今も、悔い改めないこの国の上に、神の怒りが臨んでいるのです。このことを事実として受け止めるかどうかによって、今後の福音宣教に大きな影響が出ると考えます。勿論、私は別に、日本人を責めている訳ではありません。私も一人のアメリカ人として、自分の国の罪を恥じています。奴隷問題、ベトナム戦争やイラク戦争での虐殺や数々の悲劇があります。私の所属する教団の八ヶ岳中央高原キリスト教会の信者さんで、広島の被爆者の方がいます。森本さんとおっしゃる姉妹で、3年前に、初めて森本さんの体験談を聞きました。私は2度ほど、広島の原爆の資料館を訪ねているので、知識として原爆の恐ろしさを知っているつもりでしたが、実際に被曝された方の話を聞いて、大きな衝撃を受けました。原爆が投下された時、森本さんは中学生で、爆心地からわずか3キロしか離れていない学校の教室で、掃除をしていたそうです。たまたま、しゃがんで雑巾で床を拭いていて、教壇の大きな机の後ろにいたために無事でしたが、原爆が投下された瞬間は、教室が紫色の光に包まれて、目の前でフラッシュをたかれたように感じて、数分間、目が見えなくなったそうです。他のクラスメートは教室の窓ガラスの破片を全身に受けて、血だらけになっていたそうです。また、校庭に出ると、皮膚が焼け爛れている人がいたり、死体の山があったりしたそうです。森本さんは結局、奇跡的に外傷はなかったのですが、放射能を浴びていたので、2ヶ月間、下痢と歯茎の出血で、寝たきり状態になりました。更に、その数年後に健康診断を受けると、子宮や卵巣などが全く発達しておらず、子供が産めない体になっていることが判明しました。しばらく後で結婚されますが、御主人も被爆者で、長野県の原村でペンションを経営することになります。ところが、原村に引っ越してまだ間もない時に、御主人が末期の腎臓ガンであることが分かります。御主人は数ヵ月後に亡くなりましたが、森本さんはその時、心の底から「なぜ、こんなに不幸なことばかりが続くのか」と思われました。しかし、幼い時からクリスチャンとしての信仰を持っておられる彼女は、やがて、「何か、神の目的があるはずだ」と信じられるようになりました。結局、私たちの教団の代表が原村で開拓伝道を始めて、やがて、会堂を建設することになった時に、森本さんは教会員となり、会堂の建設をするにあたって、大きく貢献してくださり、やがて、「原村に導かれたのは、このことのためだった」と確信するようになったということです。
森本さんの証を聞いた後、一アメリカ人として、お詫びをしなければならないと思って、その旨を伝えました。すると、森本さんはすぐに、こう言ってくださったのです。
「いやいや、良いですよ。私はアメリカ人を恨んでいません。神の御手の中で守られて、感謝な日々を送っています。」
私はこの言葉に、深い感動を覚えました。また、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」という、イエス様の十字架上のみことばを思わずにはいられませんでした。私は小さい頃から、耳にタコができるくらい、「原爆は、戦争を終わらせるために必要なものだった」と、何度も聞かされました。実は、第二次世界大戦の時に、私の父が海軍に入っていて、日本本土に侵入するはずの部隊にいました。結局、原爆が落とされて、戦争が終わったから、日本の地を踏まずに、そのままアメリカに帰ったのです。ですから、原爆がなかったら、私は今、ここにいないと言えるかも知れませんが、私は長いこと、父から聞いた論理をそのまま信じていました。「原爆を落とすしかなかった。それで何百万人もの命が救われたんだ。」しかし、森本さんに出会ってからは、アメリカの罪の重さを認識するようになったのです。正直なところ、私は今、自分がアメリカ人であるということに誇りを持っていませんが、特に、そのことを大きな問題として捕えていません。私のアイデンティティー、あるいはセルフ・イメージに何の影響もありません。なぜなら、私のアイデンティティーは、神と共にいるという事実に基づいているからです。別の言い方をするなら、私はキリストにある者です。アメリカ人であるからではなく、キリストにある者だから、胸を張って生きていけるのです。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)。
クリスチャンは、罪に定められることはありません。神の義となる、あるいは、神から義と認められます。素晴らしい行いをしたからではありません。キリストにある者だからです。キリストにある者は、罪が赦されています。キリストにある者は、神の豊かな恵みと祝福に預かることもできます。キリストにある立場は、特別なのです。そのことを分かりやすく表している話が、第2サムエル記9章にあります。メフィボシェテは、ダビデの命を狙おうとしたサウル王の孫に当たります。ですから、本来なら、ダビデの敵です。また、サウル王の子孫なので、ダビデの王位を脅かす存在にもなり得ます。しかし、ダビデはメフィボシェテに対して、恵みを施しました。なぜでしょうか。メフィボシェテの父、ヨナタンのためです(1、7節)。ヨナタンはダビデの親友でした。ダビデはヨナタンのことを愛し、尊敬し、その勇気ある生き方を高く評価しました。ですから、王になっても、ヨナタンに王国の重要なポストを任せようと考えていたのですが、ヨナタンはピリシテ人との戦いで、殺されました。しかし、それでもダビデはヨナタンのために、何かしてあげたいと思って、その息子メフィボシェテを宮殿に呼び、彼に恵みを施した訳です。メフィボシェテは、一生涯、王の食卓で食事をすることが許されました。彼は、足が不自由で、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいます。皆さん、死んだ犬には、どれくらいの価値があるのでしょうか。何年か前のことですが、ある日、信号待ちをしていると、電柱に張ってある、一枚のポスターが目につきました。『犬を探しています』と書いてありました。一見、どこにでもあるような感じのポスターでしたが、よく見ると、なんと、飼い主が犬を見付けてくれた人に十万円の賞金を出す、というのです。「よほど犬を愛している人だなー。きっと高価な犬だったんだろうなー」と思いながら、犬に関する細かい説明を読んでいきましたが、驚いたことに、「老犬」、「耳が聞こえない」と書いてあったのです。そのポスターを見た時、私は色々なことを考えさせられました。冷静に考えれば、耳も聞こえず、何の役にも立たない老犬のために、十万円もかけるなどということは、非常識なことです。しかし、飼い主は、犬を愛しています。たとえ、年を取っていようが、耳が聞こえなくなっていようが、そのいなくなった犬を見付けるためには、お金を惜しまないのです。メフィボシェテは、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいますから、老犬よりも、更に評価額が下がります。メフィボシェテは、ダビデのために、何ができるのでしょうか。何もできません。普通に考えると、彼はダビデからの恩恵を受ける資格はないのです。しかし、それにもかかわらず、メフィボシェテは、ダビデの恩恵に預かりました。素晴らしい特権を与えられました。一体、なぜでしょうか。ヨナタンとの親子関係にあったからです。他に、何の理由もないのです。すべて、ヨナタンの人格の良さ、ヨナタンの立派な行い、ヨナタンの勇敢な生き方、ヨナタンがダビデに示した親切のお陰です。ヨナタンの実績なのです。
私たちクリスチャンは、神の豊かな恵みをいただきます。その資格がないのに、堂々と、恵みの御座に近づくこともできるし、王の食卓に付くこともできます。どうしてですか。私たちが何か、良いことをしたからでしょうか。いいえ、キリストにある者だからです。父なる神は、キリストの十字架の功績のゆえに、あふれるばかりの恵みを注いでくださるのです。私たちは今、キリストにあって、全く100パーセント赦されて、受け入れられて、愛されています。この恵みの福音にしっかりと立つ時に、言葉では言い表せない平安を経験します。健全なセルフ・イメージを持つようになります。神の愛の中で守られながら、神の力によって、神と共に、積極的に生きていけるようになるのです。
こうして、クリスチャンは神との個人的な関係の中で自分のアイデンティティーを確立させる訳ですが、グループに所属することによってアイデンティティーを見出そうとする者は、本当の平安を味わうことは決してありません。それは、自分に対するグループの評価がいつ変わるか、分からないからです。グループから求められる厳しい条件を満たすことができなくなる恐れがあるからです。「グループに迷惑をかけないように」、「グループの和を乱さないように」、「グループに嫌われないように」といつも気を使いながら、緊張の中で生活しています。少しでも、グループから批判されると、あるいはグループが外部の人に問題を指摘されて、否定されたりすると、不安になるのです。ここで、誤解されないように、一言、説明を加えさせていただきますが、私は別に、何かのグループに所属することを否定している訳ではありません。人間社会で生きていくうえで、どうしても、色々なコミュニティーのメンバーとして責任を果たさなければならないのですが、私がここで問題にしているのは、どこにアデンティティーを見出すかということです。どの関係の中で、生きる意義を見出すかということです。「私はまず、第一に、日本人です。」「私はまず、会社の人間です。」このように考えるなら、私たちは必然的に、そのグループの計画や利益を優先していかなければならないということになります。神が何を望まれるかではなく、グループが何を望むかを考えるようになります。いかに私のユニークな才能をフルに用いられるかではなく、いかに自分をグループに合わせられるかということが重要課題になります。また、場合によって、グループを擁護するために、真理に目をつぶらなければならないという問題も出て来るのです。セカンド・チャンス論が持ち上がって、人気を集めているのは、「日本人のプライドを守らなければならない」という思いが強いからではないでしょうか。久保氏は、『聖書的セカンドチャンス論』の中で、盛んに、欧米の人々の「個人主義」に言及しています。強い個人主義に生きる欧米人は、「イエス・キリストを信じない者は地獄に落ちる」というメッセージを聞いて、何のためらいもなく信仰の決心をする。しかし、日本人は自分さえ救われれば良いとは考えることができず、自分の亡くなった先祖はどうなるのかということが気になる。それだからこそ、日本人をクリスチャンにするためには、「セカンド・チャンス」を説くことが必要であると言います。こうして、久保氏は欧米社会の個人主義を批判し、「日本人には優しい心がある」と言って、日本国民の弁明をしたり、優秀性を訴えたりする訳です。私はここで、その点を論じるつもりもないし、欧米社会を擁護するつもりも全くありません。問題にしたいのは、聖書の真理です。久保氏は、日本人としてのアイデンティティーを重要視するあまり、聖書の真理を曲げ、聖書の中に、セカンド・チャンスを裏付ける個所がないのに、無理な解釈をして、「聖書的セカンド・チャンス論」を掲げていることに対して、口を閉ざす訳にはいきません。
私は、30年余りの働きの中で、何度も、このパターンを見てきました。その一つの実例をお話しします。15年ほど前から、JEAの社会委員会の委員となっております。社会委員会は、靖国神社の問題などの社会問題を取り上げると同時に、カルト問題にも取り組みますが、5年ほど前に、静岡県のある教会で、信徒が牧師から暴力を受けているという情報を入手しました。その後、直接、被害者たちとも会って、事実であることを確認しました。私は以前から、教会のカルト化問題に注目していましたが、社会委員会の中で、教会内の権威主義やセクハラや暴力の問題について、JEAから声明文を出して、警鐘を鳴らすべきではないかということになりました。私が書いた声明文はまず、社会委員会の承認を得てから、理事会に回されました。「牧師は独裁者ではない。群れに仕える者だ。お互いにそのことを確認して、悔い改めよう」というような内容の声明文でしたが、意外にも、理事会で、却下されてしまいました。その2年後に、今度は京都にある聖神中央教会の問題が明るみに出ました。これは、皆さんの記憶にもまだ新しいと思いますが、永田保という牧師が、10代の女の子に性的虐待をした疑いで、逮捕された事件です。余談になりますが、どのように逮捕されるようになったかと言うと、一人の被害者の母親が私の著書『教会がカルト化するとき』を読まれ、勝手に振る舞う独裁的な牧師の言いなりになることはないと考えて、勇気を出して、警察に被害届を出し、結局、それがきっかけとなって永田牧師の逮捕に至った訳です。永田牧師が逮捕された直後から、私たちのところには、日本のマスコミからの問い合わせが殺到しました。「日本のキリスト教会は、この問題をどう捉えていますか。対応策はどうなっていますか」と何度も聞かれました。そこで、再び、社会委員会から声明文を出すことになりました。今、手を打たないと、日本のキリスト教会はますます、世の人々の前で恥をさらすことになると警告しましたが、再度、理事会で却下されることになってしまいました。その理事会に出席していた社会委員会の委員長の説明によると、「理事の中にも権威主義的な牧師が多過ぎたために、却下されてしまった」のだそうです。確かに、権威主義を批判する声明文を出すと、自分の立場が危うくなると心配した先生がおられたのでしょう。しかし、理由はそれだけではないはずです。臭いものに蓋をして、JEAの名誉を守りたいという思いも働いていたのではないでしょうか。このことに対して、私が深い失望感と共に、憤りを感じたのは、いうまでもありません。ニュースレターの中で、声明文が実現に至らなかったことを記事にしたところ、こう言うと語弊があるかも知れませんが、後から当時の会長に呼び出され、お説教をされました。「日本人でもないのに、日本のキリスト教会を批判するとは」といった内容のことを言われたのです。その時、私は「先生、カルト問題について、何かご存知ですか」と聞いてみたのですが、「あなたの本を持ってはいるけど、まだ読んでいない。『悪魔の顔を見たら、悪魔のようになる』と諺にあるから、カルト問題にはかかわりたくないんだ。」という答えが返ってきました。
もう一度、言わせていただきます。私たちがキリストにあるアイデンティティーを確立させる時に、絶対的な平安を持ちます。また、人にどう思われようと、神の前で正しいことを実行する力が与えられます。しかし、自分の所属するグループにアイデンティティーを見出そうとすると、どうしてもそのグループの利益や都合が優先され、真理や真実がないがしろにされてしまうのです。今年に入ってから、また、幾つもの教会や牧師の問題が一般の雑誌に掲載されました。もう一度、JEAの社会委員会から声明文を出そうということになりました。正直なところ、私は余り期待していません。残念なことですが、日本のキリスト教会は、自浄作用がなくなってきていると言わざるを得ません。社会の悪を糾弾するという預言者の役目が果たせなくなっています。「まーまー、あまり波風が立たないようにしよう。あたたかく見守ってあげよう。赦してあげよう」という対応しかできないのです。
私は、カルトとの戦いで疲れを覚えた時など、よくエレミヤ書を開きます。ご承知のように、エレミヤは25年間、神から導かれた通り、ユダの民の罪を指摘して、悔い改めを促しましたが、エレミヤのメッセージを受け入れて、神に立ち返った人は、一人もいませんでした。エレミヤは民から拒絶されただけでなく、激しい迫害も受けました。牢屋に入れられたりもしました。しかし、エレミヤは何をされても、主から与えられたメッセージを最後まで、忠実に語り続けました。どうして、そのことができたのでしょうか。彼のパワーの源は何だったのでしょうか。
「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』そこで、私は言った。
『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいか分かりません。』すると、主は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ』」(1章4-8節)。
「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ。」ここにエレミヤの信仰生活の秘訣がありました。主が共におられるのであれば、人からどう思われようと、何をされようと、そんなことは問題ではありません。「受け入れられても、受け入れられなくても、理解されても、されなくても、主のみことばを語ろう。」彼はこの決意に立って、委ねられた任命を全うしたのです。
私はエレミヤのようになりたいと望んでいます。うるさがられることがあっても、「日本の教会を混乱させている」と批判されるとしても、「日本独特の事情が分かっていない」と言われたとしても、妥協せずに、真理のみことばを語り続けるつもりです。
聖神中央教会の問題が報道されて、1ヶ月もたたないうちに、東京のお茶の水クリスチャン・センターで、教会のカルト化問題セミナーの講師として招かれました。集まった50人ほどの牧師や信徒に向かって、力の限り、教会の問題点を指摘しました。かなり、力が入っていたと思います。終わった後、一人の知り合いの牧師が寄って来て、こんなことを耳元で囁きました。「この頃、『ヒットラーに似ている』って言われることない?」ちなみに、その当時、私は口ひげをはやしていましたが、それにしてもショックでした。「イエス様のような顔に見えた」と言われたら嬉しいことですが、「ヒットラーに似ている」と言われて平気ではいられません。落ち込んでしまいます。もしかしたら、カルト問題に関わってきて、いやがうえにも厳しい顔つきになっていたのかも分かりません。しかし、後で思いました。「カルト化した宗教団体の人々や聖書を曲解する人間の目から見て、ヒットラーと同じくらい、恐れられる存在になったとしても良い」とさえ思う、ある種開き直った気持ちもあります。てやろうじゃないか。」私は人気コンテストで優勝するために、献身したのではありません。主のみこころを行なうために生きています。皆さんも、きっとそうだと思います。私とはまた別の戦いをされている方もいると思います。牧師として、感謝されることも、評価されることも、報われることもなかなかないかも知れませんが、妥協することなく、この世に迎合することなく、真理のみことばをまっすぐに説き明かしていきましょう。使徒パウロがテモテに言い残した言葉を思い出します。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」
あと何年、この働きができるか分かりませんが、最後の時には、パウロと同じみことばを告白しながら、この世を去りたいと思っています。