「セカンド・チャンスを検証する: 未信者の死後の救いはあるのか」パート4
2012.2.16霊的指導者が信じられなくなった時
2012.2.16日本福音同盟・信教の自由セミナー 2009年11月13日
本日のセミナーの講師を務めさせていただくウィリアム・ウッドです。どうぞ、よろしくお願いいたします。皆さんも御承知だと思いますが、21回目を迎えた今年の信教の自由セミナーのテーマは、これまでのテーマとはかなり異なっています。今までは、戦争の問題や、靖国神社の問題や、公立学校における国歌斉唱および国旗への敬礼の強制など、様々な社会問題が取り上げられてきました。しかし、今回は、『真の権威とキリスト者の自由』ということで、信教の自由を教会の内面から考えることになりました。私は30年前から、異端またはカルト問題に取り組んでおります。エホバの証人の訪問を受けたことが最初のきっかけでしたが、これまで幾つものグループの研究をすると共に、救出やリハビリ・カウンセリングに当たらせていただいて参りました。被害者家族へのカウンセリングもさせていただいております。その数は1000件ほどになるかと思います。また日本各地、ならびに海外の10カ国において、セミナーを開催させていただいてまいりましたが、こうした活動の中で、世界の至る所で宗教の名のもとに信教の自由が侵されている現実を目の当たりにしています。日本であっても、中国であっても、ロシアであっても、インドであっても、アメリカであっても、そのパターンはほぼ同じです。
1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺人事件など七つの事件で殺人罪などに問われたオウム真理教元幹部の早川紀代秀被告の上告審で、最高裁は7月19日、「刑事責任は極めて重大」として、被告側の上告を棄却する判決を言い渡しました。一連のオウム真理教事件で死刑確定となったのは、彼が6人目です。新聞記者の取材に対して、早川被告は判決に納得できない理由を、次のように説明しています。「人殺しにかかわったのだから、厳しい刑を受けるのは当然かも知れません。しかし、私が事件の主役だという検察官の主張は事実とは違います。グル麻原の宗教的絶対性を認めようとしないのは納得がいきません。」更に、早川被告は、麻原の予言するハルマゲドンから人々を救済しようと無私の心で働いたに過ぎない、と主張しています。ですから、計4人の殺害にかかわったのは、「信徒としてすべての判断を麻原に委ね、絶対服従していたからであって、皆に言われるほど自分は悪い人間ではありません」と言うのです。
早川被告の発言の中に、特に注目すべき点が二つあります。「すべての判断を麻原に委ねていた」ということと、「絶対服従していた」ということです。つまり、早川は、自分は奴隷状態にあって、自由に行動することができなかったと主張しているのです。その主張は裁判官に認められませんでしたが、彼の言っていることには、かなりの信ぴょう性があると言えると思います。早川は間違いなくマインド・コントロールされて、精神的な束縛を受けていました。
「マインド・コントロール」という言葉は、あのオウムによる東京地下鉄サリン事件以来、日本においても市民権を得ていますが、ごく簡単に説明させていただくと、人に依存して、自分で物事を考えたり、判断したり、決断したりする能力が著しく低下する精神状態のことを言います。早川被告は、「すべての判断を麻原に委ねていた」と言っていますが、別の言い方をすれば、彼は思考停止になっていたのです。しかし、一体なぜ、そのような精神状態が生まれるのでしょうか。二つの要素が関係しています。一つは、本人の自信の無さです。この世の中が複雑になり、洪水のように情報が氾濫している中で、多くの人々は不安を覚えています。何を信じたらよいか、どんな生き方をすれば良いか分かりません。多くの現代人にとっては、自分で考えて判断し、自分の人生に対して自分で責任を持つということは、とても苦手なことなのです。ですから、現代人は影響されやすく、またコントロールされやすい性質を持っていると言えるかも知れません。彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのです。複雑な今の世の中で、多くの人間は迷っています。特に、経験に乏しく、人生問題を真剣に考える機会を持ちにくい若者たちは、自信を失っています。
マインド・コントロールに欠かせないもう一つの要素は、自分の優越性を主張する指導者の存在です。麻原教祖の場合、インドでの長年の厳しい修行に耐えて、悟りを開いたと言っています。「私はあなたがたよりも、はるかに上の霊的レベルに達している。私は神のような存在だ。だから、自分で考えないで、私の言うことを聞いていれば、救われる。」と教える訳です。他の宗教団体では、指導者は特別の霊的体験や啓示や幻の話をして、「私は神の代弁者である。私は神に油を注がれた器だ。私に従うことは、神に従うことである。しかし、私に逆らえば、神に逆らうことになる。」と主張します。このように、権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教指導者には、若者は非常に弱いのです。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する宗教団体があると、その言葉に飛び付くのです。自分で考える苦悩を省くこともできるし、安心感を覚えることもできるからです。
「私はすべての判断を麻原に委ねて、絶対服従していた」と早川被告は述べています。多くのカルト脱会者は、自分がリモコンで操作されていたと証言していますが、「彼らが自分の意志で選んだ道なんだから、彼らの責任だ」ということで片づけられる問題なのでしょうか。いいえ、一概にはそうとは言えません。勿論、何の責任もないということにはなりませんが、考慮すべき、大事な一面もあります。カルトの被害者は巧妙な心理的トリックによる影響を受けています。「マインド・コントロールの法則」とも呼ばれていますが、そのうちの一つは、「恐怖心の法則」です。言い換えれば、脅しです。「私は神の代弁者であるから、無条件で従いなさい。私の言うことを疑ってはならない。私に逆らう者は必ず、神に見離される。」信者はこのような言葉を徹底的に叩き込まれて、無意識のうちに思考停止になります。これは彼らの責任でしょうか。必ずしも、そうとは限りません。例えで説明しましょう。今夜のセミナーの後で、あなたが帰宅される途中、強盗に襲われたとします。胸に包丁を突き付けられて、「お金を出せ」と脅されます。皆さんはどうされますか。恐らく、財布を渡すでしょう。その後、強盗が警察に捕まったとします。取り調べを受けた男は、罪を認めますが、次のような説明を始めます。「確かに、お金を受け取りました。しかし、相手の人は自分の意志でポケットに手を入れて、財布を出しました。私が取ったのではありません。」このような主張は通るのでしょうか。あなたは確かに自分の意志で財布を出したと言えるかも知れませんが、それは、包丁を突き付けられて、命の危険を感じたからなのです。カルトの信者も、指導者の脅しに対して、同じように反応しているにしか過ぎないのです。
マインド・コントロールのもう一つの心理的トリックは、「情報コントロール」です。教祖は、自分にとって都合のよい情報だけを与えて、都合の悪い情報を禁止します。このような情報統制によって、偉大な指導者としてのイメージを保つのです。言うまでもなく、情報コントロールを使うのは、宗教指導者だけではありません。情報統制をする政治家もいます。その最たる例は、北朝鮮の金正日書記長です。彼は、国民の大多数の人々に、神のように崇められています。しかし、実際はその数々の身勝手な政策によって国民を苦しめています。では、どうして、それでも偉大な指導者として崇められるのでしょうか。外部からの情報が入ってこないようになっているし、金正日を批判することが禁じられているからです。北朝鮮の方々は、決して自由だと言えません。むしろ、束縛されている、あるいは利用されていると言わざるを得ません。カルト化した宗教団体においても、これと全く同じ現象が起きます。指導者の主張の真実性を確かめるための情報収集は許されません。指導者を疑うこと自体が、とんでもない罪とされているのです。こうして、信者は物事を知る権利、自分で考える権利、自分で判断する権利を奪われるのです。
2ペテロ2章1-3節を読みましょう。
「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなた方の中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることがありません。」
この聖句から、私たちはカルト化した宗教団体の教祖の特徴について、幾つか、学び取ることができます。一つは、彼らの聖書から逸脱した教えによって、滅びをもたらすということです。30年ほど前に、世界中の人々を震撼させた、前代未聞の大事件が起きました。南米のガイアナという国のジャングル奥で、913人もの人々が集団自殺を図ったのです。彼らは、“People’s Temple” という宗教団体に属する信者たちで、教祖のジム・ジョーンズの指示に従って、自ら尊い命を投げ捨てました。毒入りのジュースを飲んで死んでしまった訳ですが、このショッキングな出来事によってカルトの危険性が認識されるようになりました。カルトはまさに、滅びをもたらします。それはまず第一に、霊的な滅びですが、それだけではありません。肉体的な滅び、家庭の崩壊、人格の崩壊などもあるのです。
次に、カルトの教祖は主を否定します。人によってその否定のし方が異なりますが、キリストの神性を否定する人や、十字架による贖いの完全性を否定する人もいます。また、キリストの神性や贖いを認めながらも、自分の霊的立場を強調する余り、教祖の存在が大きくなり、信者とキリストとの個人的な関係が育たない、というケースもあります。本来なら、信者は主との交わりによって養われて、十分に満たされ、主のみこころをわきまえることのできるクリスチャンとなるはずですが、カルト化した団体では、指導者の助けなくしては何もできない者とされてしまうのです。これはキリストの栄光を奪うことであり、キリストを見えなくさせることであり、「主を否定する」という言葉に含まれる間違った聖書教育です。
更に、カルトの教祖は、貪欲であり、人を食い物にします(3節)。分かりやすく言えば、彼らは自分の王国を築こうとしている人間です。自分の言うことを聞いてくれる人々に囲まれて、何でも自分の希望通りになる。これが教祖の描く夢であり、理想的な世界なのです。絶対的な権威を主張して、その権威が認められた場合、指導者はどんなことを要求しても、それが間違いなく満たされます。まず、偉大な指導者として崇められている者は、名誉欲が満たされます。「献金しなさい」と言えば、金銭欲も満たされます。勿論、誰もその献金の使い方について、口を挟む人などいません。更に、性欲も満たされます。2005年4月6日の朝、京都にある『聖神中央教会』の牧師永田保という人が、教会の牧師室で未成年の女の子数十人に性的虐待を繰り返していたとして逮捕されるという、非常にショッキングなニュースが報道されました。皆さんはそのニュースにとても驚かれたと思いますが、私も複雑な心境で、永田牧師が逮捕される場面を見ていました。実は、彼が逮捕された直接の原因は、私が書いた本にあったからです。被害者の方々は長い間、「誰にも言ってはいけない。ばらしたら地獄に落ちる」と口止めされていました。しかし、2004年の11月に、被害者の一人が、私が著した『教会がカルト化するとき』を読んで、独裁的な指導者の言いなりにならなくても良いんだということが分かり、連絡をしてきました。何度か、カウンセリングを受けているうちに少しずつ、マインド・コントロールが解けて、声を上げなければならないと理解し、警察に被害届けを出した訳です。『聖神中央教会』で被害を被ったのは少女たちだけではありません。献金を強要された信者も多くいると聞いています。月末になると、永田は「今月も全く献金が足りない」と講壇から語った後、個人的に「あなたも、もっと捧げられるでしょう」と信者に献金をアピールしました。そこで、信者が「お金がない」と言うと、「お金がないということは、信仰がないということだ」と言われます。罪責感を覚えた信者は、消費者金融から借りてでも献金をすることになりますが、返済が滞って困っている人が多い、という現実があります。更に、極端な教えにのめり込むことで、家庭崩壊を招くケースも報告されています。
聖神中央教会のニュースを受けて、多くの牧師は、「あれは極めて、特殊なケースだ」という受け止め方をされたようですが、私はそのようには考えませんでした。それは、他にもカルト化した教会の情報を得ていたし、カルトと同じようなマインド・コントロール的な手法を用いる教会を個人的に知っていたからです。その後も、教会関係指導者による暴力、セクシュアル・ハラスメント、財産の奪取などの不祥事が発生し、一般のメディアでも取り上げられました。裁判でその真偽が争われているケースも多数あります。申し上げるまでもなく、このようなニュースは測り知ることのできないほどの深刻なダメージを教会に与えています。「真理の道がそしりを受ける」とペテロが述べているのは、まさにこのことです。私は、教会が完全にカルトになることはさほどないと思っています。しかし、教会がカルト化する、すなわち、カルトのような体質になるとか、カルト的特徴を持つようになるということは、十分にあり得ます。日本福音同盟も、昨年の12月に、教会のカルト化問題に関する警鐘を鳴らすための手紙を、加盟諸教団、教会、および宣教諸団体に出しています。また、9月に開かれた第5回日本伝道会議で採択された『札幌宣言』も、教会のカルト化問題に言及しています。今こそ、この問題について十分に検証し、自己吟味をし、悔い改めるべきことを悔い改める時です。特に、今夜のセミナーのテーマである「真の権威とキリスト者の自由」が大きな意味を持つ課題だと考えますが、これまでお話しをしてきたように、カルト問題を検証する時に、二つのキーワードがあります。それは権威とコントロールです。カルトの教祖は特別の権威を主張して、自分の野望達成のために人を奴隷にします。「指導者に従いなさい」という聖書個所を引用して、信者に対する絶対服従を要求します。一方、キリスト教会の牧師も、霊的な権威をもってみことばを語り、群れを牧します。どこが、どう違うのでしょうか。カルトにおける権威は、人を指導者に依存させ、指導者の要求を通すために使われます。これに対して、聖書的な牧会における霊的権威は、人をキリストに引き合わせ、霊的な大人に育てるために用いられるのです。
エペソ書4章11-15節を開きましょう。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」
皆さんもよくご存じの聖句だと思いますが、ここに記されているように、イエス・キリストは御自分の教会のために、五つの賜物を与えてくださいました。教会が健全な成長を遂げるために、五つの務めに励む教職者が立てられる訳ですが、当然のことながら、その務めを果たすために、賜物と共に、キリストからの霊的権威も与えられています。教職者は、自分が神によって立てられた器であるという確信がなければ、務めを果たすことなどできません。確かに、講壇に立つ時に、「主はこう言われる」という、権威に満ちたメッセージを語ります。主の奉仕には、権威は欠かせません。しかし、何のための権威なのか、正しく理解する必要があるのです。
まず第一に、権威は、信徒を成長させ、自立した霊的大人に育てるためにあります。13節には「完全におとなになって」、14節には「もはや、子どもではなくて」、15節には「あらゆる点において成長し」とあります。成長を遂げた霊的な大人とは、どんな人のことを言うのでしょうか。それは、自立している人だと言えると思います。つまり、自分で物事を考えて、判断し、また決断することのできる人です。新生したばかりのクリスチャンは、赤ちゃんと同様に、分からないことも多いし、できないことも色々とありますが、教職者の助けを受けながら成長し、神との交わりの中でみこころをわきまえることのできるクリスチャンとなっていくはずです。何年たっても牧師離れができない、つまり、牧師に相談してからでないと何も決められない、牧師の助けがなければ何もできない状態に留まることは、決して神のご計画ではないはずです。ですから、聖書的な教職者は決して、信徒を自分に依存させません。「あなたは未熟だから、何も考えないで、神の器である私の言うことを聞きなさい」というように、霊的権威を悪用しません。普通の親が自分の子供にそうするように、あくまでも信徒の自立を促す指導を行なうのです。何度も説明しているように、カルトは人を子供のままの状態にしておきます。これがマインド・コントロールの最大の悲劇です。人間の成長が止まってしまうことです。正しい教育、あるいは聖書的な訓練は、人をコントロールするために行なわれるのではありません。その目的は、成長であり、自立なのです。
1ペテロ5章2-4節を開きましょう。
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」
「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく」という言葉に注目してください。聖書的牧会は支配ではありません。支配は成長を促しません。「私は牧師だから、私に従え」と命令しても、自立した人間は育ちません。依存型の人間になるのです。一方、模範を示すことは、自立を促します。命令しない。圧力をかけない。脅さない。模範を示して、人が自ら判断して、自ら納得して、応答するまで、聖霊のみわざを待ち望むのです。勿論、権威の問題を考える時、5節の「若い人たちよ。長老たちに従いなさい」という聖句も考慮に入れなければなりません。ヘブル書の13章17節にも、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」とあるので、私たちは指導者に従うべきです。しかし、それは、指導者が聖書的な指導者としての条件を満たしている場合のみです。しもべとして群れに仕え、群れの模範となり、聖書を忠実に語っているなら、私たちは勿論、指導者に従うべきですが、権威を振りかざし、人の話に耳を傾けず、勝手な要求を出し、みことばに反する命令を下したなら、その指導者に従ってはならないのです。つまり、聖書的な従順は、自分の頭を捨てて、自分の人生に対する責任を放棄し、何も考えずに、ただ闇雲に従うということではないのです。もし、それが聖書の教えていることであれば、私たちは「神の器だ」と主張する、どのような人間にも従わなければならなくなってしまいます。神学的な教育を受けていようといまいと、新生体験があろうとなかろうと、精神状態がどうであろうと、「私は神の選んだ器です」と主張する人がいれば、従わなければならない。果たして、主がこんなことを私たちに望んでおられるのでしょうか。そんなはずもありません。なぜなら、「にせ使徒、にせ預言者、にせ教師に注意せよ」と、多くの聖句にはっきりと書かれているからです。
それでは、エペソ書に戻りましょう。霊的権威が与えられている二つ目の目的は、13節にあるように、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達」するように群れを導くことです。申し上げるまでもなく、信仰も、キリストに関する知識も、みことばから来ます。ですから、教職者は権威をもって、みことばを語らなければなりません。「神はこのようなお方である。神はあなたにこう望んでおられる」と、聖書から示していくなら、それは間違いなく、神からのメッセージになります。信徒はそのメッセージによっていよいよ、キリストを深く知るようになり、健全な成長を遂げていくのです。しかし、そこで牧会者は勘違いをしてはなりません。権威があるのは、聖書のみことばだけです。牧師の個人的な思いであっても、希望であっても、願望であっても、あるいは神から与えられたとされるビジョンであっても、それに聖書と同等の権威があるかのように、信徒に押し付けてはなりません。「牧師のビジョンに反対する者は、神の権威に反対しているのであって、聖霊に逆らっている」というような発言は、聖書に対する甚だしい曲解です。勿論、牧会者に神からのビジョンが与えられるということは、当り前なことです。まず、指導者が群れの進むべき方向を見定めなければ、群れは導けませんが、そのビジョンは、聖書と同等の権威のあるものではありません。祈りの中で示されたものであると思われたとしても、聖書と同じように神の霊感によるものだとは言えません。牧会者はあくまでも人間ですから、神のみこころを完全に把握しているとは限りません。ですから、「私はこうするように、聖霊に導かれている」と宣言するのではなく、ビジョンを語りつつ、祈りのうちに、群れと共に、その内容がみこころにかなっているかどうかを確認するのです。勿論、そのプロセスを踏んでいく中で、色々な疑問が浮上するでしょう。指導者にとっては、忍耐が試される時ですが、一つ一つの質問に答えて、群れが納得できるまで説明をするということは、群れの成長のためには、非常に重要な意味を持っています。例えどんなにしんどいことであっても、このプロセスを避けてはなりません。いちいち、みんなの質問に答えなくても済むように、「牧師に従え」的な牧会をしてはならないのです。
霊的権威が与えられる最後の目的は、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ように信徒を導くことです(13節)。3章19節にも、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とパウロは祈っていますが、これこそクリスチャンの目指すべき究極的ゴールです。いよいよ主を深く愛する者となり、どのような状況の中にあっても主に信頼する者となり、喜んで主のみこころに従う者となり、全く聖霊に満たされた者となり、主の御姿に似た者となることです。こうして、健全なクリスチャン生活を送っている者は、いつも主を見上げています。信仰の対象は主なるキリストです。ですから、教職者は権威をもって、「主に目を留めなさい。主は決してあなたを失望させるようなことはなさらない。主が共におられれば、恐れることはない。」と信徒を指導するのです。一方、再三、お話しをしているように、カルトにおいては、必ず、指導者が注目され、信頼され、崇められていきます。これは教会の中でも、十分に起こり得ることなので、教職者は細心の注意を払うべきです。「私ではなく、キリストである!」というメッセージは、どんなに強調しても、強調し過ぎることはないと思います。牧師は教祖になってはなりません。余談になりますが、永田保が海外に出かける時など、教会のスタッフ数十人が先に空港に行き、ターミナル・ビルで、2列に並び、その真ん中を通る永田に、スタッフ全員が深々とお辞儀をして、「行っていらっしゃいませ」と大きな声で見送ったそうです。私は永田の逮捕後、そのようにしていた信者たちと何度も交わりを持ちましたが、あるレストランで食事をしている時のことです。突然、一人の姉妹が私に尋ねました。「先生の飲み残した水をいただいても良いですか。」最初は、その意味を理解できませんでしたが、彼女はこう説明しました。「牧師先生が口を付けたものをいただくと、神からの特別の恵みが与えられます。」永田がそこまで信徒を訓練していたとは驚きです。しかし、上には上がいます。東北のある大きな教会では、スタッフが牧師室の前を通る時に、お辞儀をするようにと訓練されています。牧師がいても、いなくても、です。その教会で牧師が何かに視線を向ければ、みんな、「先生は何を見ておられるのだろうか」とその視線を追います。牧師が指を動かせば、みんな、飛び上がるのです。これは、パウロが述べている教会のあるべき姿ではありません。健全な教会では、キリストが崇められるように指導されて、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)というのが牧師の口癖になっているのです。
最後に、もう一度、今夜のテーマについて考えましょう。『真の権威とキリスト者の自由』ということについて、ご一緒に考えてきましたが、エペソ書にあるように、霊的権威は信徒を自立させ、みことばによって群れを養い、キリストが崇められるようにするために与えられます。この霊的権威が正しく用いられると、自由が生まれます。それは、成長する自由です。自分でみこころをわきまえる自由です。キリストを知り、キリストを崇める自由です。また、それは質問をして、納得するまで確かめる自由です。残念ながら、日本の多くの教会には、このような自由はないと言わざるを得ません。信徒たちは独裁的な指導者のもとで、束縛されており、苦しんでいます。今こそ、聖書的な牧会のあり方について、よく考えて、反省すべきところを反省しようではありませんか。6年前に、『教会がカルト化するとき』という本を出した時に、「日本の教会を混乱させている」と批判されました。「あなたの本のせいで、権威をもって、みことばを語ることができなくなってしまいました」という声もありましたが、今晩の講演で、私がどのような趣旨で問題提起をしているか、ご理解いただけたかと思います。教会の健全化は、日本のリバイバルの大前提です。聖書の基本的真理に立ち返って、この国でイエス・キリストが崇められるように、共に祈り求めていこうではありませんか。