「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント –NARに関する警鐘を鳴らす–」の「反証」に答える

先日、ある知り合いから、私の著書『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』に対する「反証」たるものがインターネットに載っていることを知らされました ( https://note.com/risingdestiny/n/nf33e05bbb032 )。
ここで、その「反証」に答えてみたいと思います。
(投稿者はご自分のお名前を名乗らないので、以降「Aさん」と呼ぶことにします。)

なお、『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』は、当サイト https://cult-sos.net/nar/ で全文公開されていますので、ぜひご一読下さい。

冒頭の聖書個所について

Aさんは初めに、多数の聖書個所をリスト・アップしておられますが、何の解説もないので、その意図はよく分かりません。「主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた」(イザヤ書63章10節)などはそのまま、私に当てはまるとおっしゃりたいのでしょうか。

聖書以外の啓示について

次に、

「現代では預言はない、奇跡はない」と、聖書から真理を取り去ることで、彼らは、神の国にあるいのちの木と聖なる都から、その受ける分を取り除かれるであろう。

という個所が出て来ます。

確かに、私はNARで推奨されているような「預言」を否定しています。牧師が聖書から語って、悔い改めるように会衆に迫る時に、そのメッセージが預言的なものになると信じています(実際に、旧約聖書に登場する預言者のメッセージは90%、悔い改めに関する内容です)が、本にも記しているように、宗教改革におけるプロテスタントの三大原理として、「聖書のみ」があります。「聖書のみ」とは、人が救われ、クリスチャン生活を送るために必要な教えがすべて聖書に含まれており、新しい啓示等によって補われなければならない不足は何一つない、という意味です。こうして、プロテスタント信仰を固持するクリスチャンは、今日までの400年間、聖書以外の啓示(預言)を認めていません。そのようなものは不必要である、という立場です。ですから、NARの関係者たちが、「今も、神から新しい啓示を与えられることがあり得る」と主張した場合、もはや、プロテスタント信仰に立っていない、ということになります。そうです。はっきりと申し上げておきましょう。NARの神学を支持している方々は、プロテスタントの信者ではないのです。勿論、「聖書から逸脱してさえいなければ、その啓示を認めても良いのではないか」という意見もあるでしょう。しかし、プロテスタントの「聖書のみ」で問題とされているのは、聖書から逸脱しているかどうかということではなく、聖書に書かれているかどうか、ということなのです。聖書に書かれていないことを「神からの新しい啓示」として語るなら、それは完全にアウトなのです。結局、聖書から逸脱しているかどうかというのは、あくまでも解釈の問題で、人によって様々な見解が考えられます。それでは、神からの啓示なのかどうかを判断するための確かな基準が持てません。「何でもあり」という話になります。

例えば、私が関わっている教会で、NARの影響を受けている教会がありますが、その教会の信者がある時、神からの啓示を受けたそうです。それは、「悪霊が一番、活発に働くのは午前の2時から4時までの間で、その時間帯に目を覚まして、祈らなければならない」という内容のものでした。この「啓示」は、聖書から逸脱しているのでしょうか。逸脱していると判断する人もいるかも知れませんが、はっきりと断言できる訳ではありません。なぜでしょうか。聖書は、悪霊がいつ活発に働くのかということについて、沈黙しているからです。もし、「悪霊は夕方の4時から6時までの間に特に活発に働く」と書かれているとするなら、「午前2時から4時まで活発に働く」という啓示が聖書から逸脱していると言えますが、そのようには書かれていないのですから、その場合は、必ずしも「聖書から逸脱している」とは断言できないことになります。ですから、繰り返しになりますが、重要なのは、聖書から逸脱しているかどうかということ以前に、「啓示」とされているものが、聖書に書かれているかどうかということなのです。書かれていないのであれば、「聖書のみ」の信仰に立つ者は、受け入れる訳には行かないのです。

「では、クリスチャンが祈りの中で聖霊の導きを感じるという経験も否定されるのか」と言われるかも知れません。私はこれまでの50年間の信仰生活の中で、何度も聖霊の導きを感じたことがあります。また、何度も祈りの答えとして奇跡的に守られたり、助けられたり、強められたりした経験もあります。決して、Aさんが決め付けているように、奇跡を否定する者ではないのです。神様との個人的な交わりの中で、何か示されることがあって、それによってみこころを確信した人がいれば、そして神との関係の中にそのことをとどめているなら、私はその人のことを批判したりしません。問題にしているのは、「聖書に書かれていないことを神から示されたから、このメッセージ(新しい光)を多くの人に知らせなければならない」という主張です。もし、NAR神学を支持している方々が、今も「預言」という形で神からのみことばが与えられると本当に信じているなら、その預言を聖書に書き加えるべきです。神のみことばだからです。しかし、彼らはそのようなことをする勇気などないでしょう。「ダニエル書」などのように、「○○書」と、実名で聖書に乗せるなら、世界中の聖書学者から厳しく追及されることになるでしょう。その問題点、矛盾点を指摘されることでしょう。結局、現代版の「預言者たち」はその責任が負えないから、また「預言者」としての権威が地に落ちてしまうから、「神からのメッセージだ」と主張しておきながら、決して聖書に書き加えることはしないでしょう。その意味では、モルモン教の方が正直だと言えるかも知れません。創立者のジョセフ・スミスの啓示である『モルモン書』などを、神のみことばとし、聖書と同等の権威があるとはっきり教えているからです。

NARという言葉について

続いて、Aさんは、

この本で槍玉に上がっている当該ミニスター達を15年以上ウォッチし続けているが、書籍であれ礼拝のメッセージであれ、当事者やその関係者達がNARという言葉を使うのを、ただの一度たりとも聞いたことはないし、ただの一度たりとも見たことがない。

と述べておられます。

確かに、私も著書の中で説明しているように、NARはグループではなく、同じような神学を共有する人々のネットワークであるので、その中にいる人たちは、自分のミニストリーの宣伝を第一に考えて、あえてNARという言葉を使う必要もないと考えるかも知れません。また、アメリカでは、NARは異端であり、危険なムーブメントであると幅広く批判されているので、その批判をかわすためにも、NARという名称を伏せている可能性もあるでしょう。

NARは元々、ピーター・ワグナー氏が一つの動き(ムーブメント)を表すために作った言葉ですが、一般的には、その流れを特徴づける教理(「支配神学」、「繁栄の福音」、「七つの山の制覇」など)を支持する人々が「NARの人間」だと分類されます。本人にその意識があってもなくても、外部の人から見れば、明らかにNARの神学の影響を受けているなら、当然、そのようなことになる訳です。

リック・ジョイナー牧師の教会(モーニング・スター・フェローシップ・チャーチ)について

次に、Aさんはリック・ジョイナー牧師の教会に行かれた時の経験を語っておられます。

私は、リック・ジョイナー牧師の教会(モーニング・スター・フェローシップ・チャーチ)の礼拝に実際に行ったことがある。初めて行ったので当然、新来会者だ。私は礼拝が始まる前に会堂で英語の聖書(NIV)を開いて読んでいたが、別に警備員に退場させられることなど一切なかった。

ということです。

その話は事実でしょう。しかし、私が著書の中で紹介している女性の話も事実です。その女性は10数年間、教会の中心的なスタッフとしてジョイナー牧師の教会で、フルタイムで働いていました。彼女は自分の本の中で、自分が体験したことを正直に証言しています。つまり、リック・ジョイナー牧師が「神の預言者」として崇められて絶対的な権威を持っていたこと、彼の「啓示」を中心にメッセージが語られていたこと、聖書を開こうとする新来会者が強制的に退場させられることが実際にあったということです。「その女性の言っていることは嘘だろう」と考える読者もいるかも知れませんが、アメリカの社会を理解している方なら、その可能性が極めて低いと判断するはずです。彼女が嘘をついたのであれば、とっくに名誉棄損罪で訴えられているはずです。しかし、モーニング・スター・ミニストリーズから告訴されてはいません。教会も否定できない事実であるからです。では、Aさんがその女性と真逆の経験をしたのは、何故なのでしょうか。

一つ、考えられることは、これ以上、教会のイメージダウンにならないように、信来会者に対する対応を変えた、ということです。しかし、新来会者への対応を変えても、その団体の間違った権威主義を悔い改めたとは限りません。カルト化した団体で良く見られることですが、外部に対して発信される情報は、内部の者に対して発せられるメッセージとは異なるのです。悪く思われないように、外部向けのパフォーマンスが行なわれる訳です。

もし、ジョイナー牧師が自分の牧会のあり方に問題があった、権威主義的になり過ぎていたということを公に告白するなら、確かにモーニング・スター・フェロシップ・チャーチが変わったと、私も認めましょう。

金粉の奇跡について

Aさんは実際に何度か、「金粉の奇跡」を体験されているそうで、本物の金粉の奇跡は確かにあると主張しておられます。

金粉の奇跡は、私も実際に何回か日本の礼拝で体験したことがある。その内の1つは、日本でのジョシュア・ミルズ牧師の集会に参加してそれを体験した。実際に、ジョシュア師の顔にキラキラ光る物が時間が経つほどに増えて行くのだ。誰も金ラメパウダーなどふりかけていないし、物理的にも不可能だ。そしてそのキラキラ光る物はなんと私の手のひらにも現れた。隣の人にも現れていた。これは、ジョシュア牧師に与えられたそういう祝福なのだ。

但し、

ちなみに、この金粉は不信仰な思いを持つ(疑う)とすっと消えてしまった。これは私の体験から語っている。

ともおっしゃいます。

別に、Aさんの話を否定するつもりはありません。世界中で、同じような経験をしている人が大勢いるでしょう。しかし、果たして、聖霊によるみわざだと言えるのでしょうか。そのような「奇跡」には、どんな意味があるのでしょうか。聖霊は決して、無意味に働かれるお方ではありません。そのみわざの究極的な目的は、イエス様の栄光を現すことにあります(ヨハネ16:13-14参照)。金粉を降らせることによって、どのようにキリストの栄光を現すことができるのか、私には全く分かりません。

指導者の権威とマインド・コントロールについて

次に、Aさんは、一般の牧師の説教に力がないから、当然、若者がNARの指導者たちの権威に満ちたメッセージにひかれるだろうと論じています。

それってつまり、裏を返せば既存の教会が力強いメッセージを語っていないということでしょう。安心感を得られるメッセージを語っていないということでしょう。混ぜ物のない力ある福音を語っていないということでしょう。説教者が日々福音の中に生きていないということでしょう。日々の生きた証を語れず、講壇から政治の話や世間的な雑談や自分の与太話や自慢話を語って若者が教会に来るだろうか。

自分達の信仰の力量不足を棚に上げて、攻撃することで自分達の地位を守ろうとは片腹痛い。

ともコメントしていますが、私が本書の中で言わんとしていることは、「私が神の選ばれたメッセンジャーだから、何も考えずに私に従え」という権威主義に大きな問題があるということです。自信のない若者が「使徒」や「預言者」に依存するようになり、やがて思考力も判断力も決断力も著しく低下してしまうというマインド・コントロール的な現象が、必ず、すべてのカルトにおいて起こっています。NARの影響を受けている教会においても起きている問題です。私は、長年にわたって多くのカルト被害者のカウンセリングをして来た者として、あくまでもマインド・コントロールの危険性について警鐘を鳴らしているのであって、自分の地位を守ろうとしている訳でもないし、誰かを攻撃している訳でもないのです。

ちなみに、キリスト教会においても、同じような問題が見られることがあります。牧師が独裁者のように振舞って、信徒を支配しているということです。私の著書『教会がカルト化するとき』を参照していただければ幸いです。

「七つの山」について

Aさんは更に、「七つの山」の問題に触れておられますが、

これはNARのビジョンではない。もともと一番最初にこの幻(ビジョン)を受け取ったのは、福音派キャンパス・クルセード・フォー・クライスト総裁のビル・ブライト牧師だ。

ということです。ビル・ブライト師は確かに、1975年頃から、ローレン・カニングハム宣教師と共に、「七つの山」((宗教界、家庭、教育界、政府、マスメディア、芸術界・エンターテインメントの世界、ビジネス界)においてクリスチャンが積極的に証しをしていかなければならないというビジョンを公表しました。また、このビジョン達成のために、伝道者を訓練して、教育界、政府、マスメディアなどに派遣しました。

具体的に、どれだけの効果があったかは、私には分かりませんが、彼らが掲げたビジョンと、NARの中で提唱されているビジョンには、根本的な違いがあります。ランス・ウォルヌー(現在の形でのNARのビジョンを神から示されたとされている人物)などが進めようとしているのは、政治界やマスメディアの人々に伝道することだけでなく、それぞれの分野において影響力を持ち、「預言者」と「使徒」の指示を仰ぎながら、各「山」を勝ち取る(変革する)ことです。少数の人々を信仰に導くことではなく、国々の社会そのものを変えてしまうことなのです。

ですから、ビル・ブライトとローレン・カニングハムから「七つの山」という言葉が最初に出たのだとしても、NARの関係者たちはそれを独自のものに変えています。今、叫ばれている「七つの山の制覇」はまさに、NARのビジョンなのです。

リック・ジョイナー牧師の著書「ファイナルクエスト」について

続いて、Aさんの「反証」の中で、リック・ジョイナー牧師の著書『ファイナルクエスト』の問題が取り上げられています。また、

『ファイナルクエスト』は霊の領域での出来事の話であり、分裂したらキリストの身体は立ち行かないというメッセージが語られている。

と述べておられます。一方、ジョイナー牧師はこの本の中で、NARの軍隊と既成のキリスト教会の信者たちとの間に勃発する戦争について詳細に記していると、私は理解しました。Aさんは

一番吹き出した箇所がここだ。失礼ながら、著者は読解力がないのだろうか。

とコメントをされていますが、私は決して笑いごとではないと考えます。この話の中には、内部の人間にしか分からない、秘められたメッセージがあります。

これはモーニング・スター・ミニストリーズを脱退したミシェル・マックカンバー氏も指摘していることですが、ジョイナー牧師は常に、神の計画における自分の特別な立場を強調して、絶対的な服従を信者に強要しています。自分が神の選ばれた器であって、自分に従わない者は滅びる、と言っています。これは、カルト化した団体でよく見られるパターンです。ですから、『ファイナルクエスト』の中で、彼がそのパートを演じていると、私は直観したのです。「読解力がない」と言われるかも知れませんが、40年間のカルト研究によって培われてきた識別力というものはあります。カルトの巧妙な論法(ごまかしのトリック)を見破る識別力です。ジョイナー牧師は、誰にでも分かるように、「私こそ油注がれた器だ。私に従わない者は滅びる」と本の中で述べている訳ではありませんが、彼のマインド・コントロール下にある人間は、そのように読み取ってしまうのです。

エホバの証人の話になりますが、彼らは輸血を拒否することで有名なカルト集団です。毎年、輸血を拒否したために亡くなっている信者が数千人もいます。そのことがマスコミで取り上げられることもあれば、取り上げられない(公表されない)こともありますが、大きなニュースになった場合、必ず、ものみの塔聖書冊子協会がマスコミからの厳しい批判を受けます。その時、組織のスポークスマンが決まって言うことは、「輸血拒否は組織のルールではなく、各信者が自分で判断していることです」ということです。確かに、ものみの塔の出版物には、「輸血を拒否しなければなりません」というくだりはありません。「輸血はエホバの律法に反しますが、あなたはどうしますか」と書いてあるだけです。ですから、外部の人間は、「各信者が自分で考えて結論を出すだろう」という印象を持ちますが、内部の人間は、組織の見解はエホバの見解であり、それに従わないことはエホバに逆らうことであり、輸血をしたら楽園で復活する希望を失うことになると考えます。こうして、内部の人の読み方(理解の仕方)が外部の人と大きく異なる訳です。

モーニング・スター・ミニストリーズを出たミシェル・マックカンバー氏は更に、次のことを証言しています。ジョイナー牧師はNARと既成教会との間に起こるべき戦争を、南北戦争に例えてメッセージの中で語っています。NARは北軍の兵士で、聖霊の導きによって生きる人々であるのに対して、既成教会は南軍の兵士で、理性によって生きる人々だそうです。最終的には、南軍は神によって破滅させられることになるそうですが、真のクリスチャンはただその戦いを傍観するだけにとどまらず、神の働きに参与する、つまり、武器を持って偽クリスチャンを殺す、とジョイナー氏は断言したということです。また、マックカンバー氏の証言によると、NAR側は実際に、陸軍、海軍、空軍を有するようになるという「預言」もあったそうです。ですから、これは決して笑ってすまされる問題ではないと、私は認識しています。

霊的体験の判断基準について

最後に、ニューエイジで見られる超自然的現象とNARで起こっている「霊的現象」との間に共通点があると、私が述べていることに対して、Aさんは「聖霊様を侮辱する罪だ」と批判しておられます。

>「啓示」もチャネリングと同質
この言葉は聖霊様を侮辱する罪だ。チャネリングは悪霊と繋がる行為。啓示は主ご自身から受け取るものだ。

>「個人預言」と占いも同類
まったく違う。この言葉も聖霊様を悲しませる罪だ。占いは悪霊から受け取るもの。個人預言は主から受け取るものだ。イエス様ご自身も聖書の中で多くの個人預言をなされた。旧約聖書にも沢山の個人預言が出て来る。

しかし、果たしてそうでしょうか。一つの「霊的体験」が聖霊によるものなのかどうかを判断するために、クリスチャンは何を基準にすべきなのでしょうか。言うまでもなく、聖書信仰に立つ者は、聖書を基準にします。

例えば、金粉が降って来たという現象を考える際、まず、それが聖書にその前例が見られるかどうかを問題にしなければなりません。「ソーキング」(神の臨在に浸ること)や犬の声で吠えたり、転げ回ったりすることもそうです。過去の時代に聖霊がなされたみわざであれば、今もなさることがあり得ると考えることができますが、聖書に前例のない「現象」が起こると、私はどうしてもそれに「?」がつきます。

「啓示」や「預言」の問題についてもそうですが、前述の通り、「聖書のみ」を掲げるプロテスタント・クリスチャンは、聖書以外の「神の言葉」を認めません。では、聖書に何の根拠もない「霊的体験」や「啓示」が神からのものではないとすれば、どこから来るのでしょうか。聖書の権威を認めない「偽りの父」(ヨハネ8:44)から出ていると言わざるを得ません。「体験すれば本物なのかどうか分かります」というAさんの論理は極めて主観的なものです。大事なのは、聖書という客観的な基準に従って判断することです。