真の権威とキリスト者の自由
2012.2.16「熱心な教会という落とし穴」セミナー開催
2012.8.18全国セミナー 2011年3月21日
今回のセミナーのテーマは、『霊的指導者が信じられなくなった時』ということですが、信用していた人に裏切られることほど、辛い経験は余りないような気がします。私も身内に騙されて、亡くなった父の遺産を全部奪われた経験があります。数年も前のことですが、そのことを考えない日はありません。しかし、霊的指導者に裏切られるという経験は、また格別に苦しいものがあります。霊的指導者、つまり、神に仕える人、神の群れを導くために召されて、神の霊によって導かれ、神に用いられる器であるはずの人間が、その高貴な召命に反して、群れを傷つけてしまう。とんでもない過ちを犯してしまう。嘘をついてしまう。そのような場合に、私たちは言葉では言い表せないほどのショックを受けてしまうのです。
先月の『週刊新潮』に、離婚劇の渦中にある大川きょう子さんという女性の話が掲載されています。「幸福の科学」の総裁大川隆法の奥さんです。記事の中で、巨大教団となった「幸福の科学」の正体を暴露しています。きょう子さんは1987年、大学4年生の時に本屋さんで大川隆法の書籍を見つけて、2ヶ月で10冊ほど読みました。霊界の様子や死後の世界がありありと描かれて、心に響いたので、すぐに「幸福の科学」に入会しました。様々な個人的悩みを大川隆法に相談するようになっていきますが、そのうちに、デートに誘われます。喫茶店に入って、いきなりプロポーズです。「あなたが私の結婚相手だという霊示を受けている」と言うのです。それに対してきょう子さんは、「私もそうだと思う」と、初デートでプロポーズを即了解しました。この人について行けば幸せになれる。きょう子さんはそう信じて疑いませんでした。そして、二人の子供に恵まれて、教団も順調に拡大していきました。ところが、そのうちに「霊言」というものが夫婦間に深刻な問題を起こします。「霊言」とは、大川総裁の上に霊が降りて来て語らせる言葉だそうです。大川氏これを用いて、信者たちを自由自在に操っています。また、奇妙な話ですが、夫婦間のトラブルに守護霊が登場します。簡単に説明すると、こういうことです。つまり、大川隆法に奥さんの守護霊が降臨する。そうして奥さんの分身となった大川に、教団職員や大川の二人の子どもたちが質問を投げかける。それに答える形で大川総裁の口から出て来る言葉は、奥さんの内心であり、潜在意識だというのです。勿論、本人が実際には思ってもいないことが語られますが、次から次へと醜い言葉が出て来て、それがお前の本心だ、と言う訳です。実際にDVDに録画されていますが、質問者として長男と長女が登場します。長男の呼びかけに対して、奥さんの分身となった大川はこう言います。
「バカ息子が。あんたのおかげで離婚しそうになってるんじゃないの。」
長女に対しては、こんな具合です。
「なんか、あなた、変な存在ね?何、もう、豚面して、何よ・・・」
極め付きは、次のやり取りです。長女に対して、こう発言します。
「自殺しといた方が良いよ、もう、本当に。」そして、彼女からこう言われるのです。「逆に、先に、あなたが死んだ方がいいんじゃないですか。」
お母さんが娘に、「自殺しなさいよ」と言っている。娘もお母さんに向かって、「あなたこそ死んだほうが良い」と言い返している。親子で「死ね、死ね」と罵り合っているのです。大川きょう子さんは、「幸福の科学」教団での生活のことを「地獄そのものだった」と述べています。こんな子供だましのような田舎芝居をやって、人の人生を狂わせるようなことは、果たして宗教家のすることだろうかと、呆れるばかりですが、きょう子さんにとっては、大川隆法は教祖であると同時に、夫でもあるので、二重のトラウマを受けていると思います。しかし、彼女は決して黙ってはいません。恐れずに教団のカルト性を暴露しています。『週刊新潮』の記事は、「幸福の科学」の相当なイメージダウンにつながっているはずです。ちなみに、教団側は一生懸命に、大川隆法の新書の宣伝に力を入れて、ダメージを最小限に抑えようとしています。先日、電車内で見た広告には、こうありました。
「学校への信頼、熱心な人格者としての教師、伸びて行くことを喜びとする生徒。そんな理想の教育を、この日本でつくりたい。」
カルト化した宗教団体の恐ろしさを感じます。別の方の話ですが、2月25日に、お茶の水クリスチャン・センターにおいて、日本と韓国の異端問題の専門家たちによる交流会が開かれました。その時に、韓国の異端である「新天地」というグループの元幹部が証言をされました。「新天地」は急激に伸びている異端の一つで、創立者はイ・マンヒという韓国人です。彼は「聖霊」と呼ばれて、また、決して死なないと宣言している人です。81歳です。人々はイ・マンヒの比喩的な聖書解釈に引かれて入信するようですが、元幹部であるシン・ヒョンウックの話によると、イ・マンヒと27歳の女性信者とのスキャンダルが発覚されたそうです。そこで、イ・マンヒのことを徹底的に調べてみようと思ったシンさんは、次々と疑問を持つようになりました。会計報告が明らかにされていないこと、スタッフが無償で働かされていること、教団の献金が全部、イ・マンヒの金庫に入っていること、教団の教理はすべて、イ・マンヒ独自のものではなく他の団体の寄せ集めであることなどです。シンさんは、イ・マンヒに対して、教理の訂正と組織の改善を求めました。すると、こう言われました。
「これはクーデターだ。」
その後間もなく、シンさんは教団から追放されました。人前で自分の体験を語るのは、この間が初めてだったと思います。相当な勇気が必要だったのではないかと思うのですが、最後におっしゃった言葉が非常に印象的でした。
「私は異端を恐れない。恐れるのは、牧師たちの無関心だけだ。」
霊的指導者に裏切られるということは、私たちにとっては、とても大きなトラウマになります。怒りや悲しみが込み上げて来ます。憂鬱な気分になります。何とか立ち直りたいけれども、どうしたら良いか分からないのです。今日、お集いになられた皆さんの中にも、そのように感じている方がきっとおられるはずです。しかし、霊的指導者に裏切られた時に、どうしたら良いのでしょうか。しばらく、御一緒に考えてみましょう。
聖書の中にも、指導者に裏切られた人物がいます。ダビデです。ダビデは羊飼いでしたが、イスラエルの初代の王サウルに気に入られて、サウルに仕えるようになりました。サウルは度々、悪い霊によって苦しめられましたが、ダビデが立琴を弾くと、王は元気を回復したと書かれています。また、ピリシテ人の陣営からゴリヤテという代表戦士が現われて、イスラエルを罵った時に、ダビデが彼を倒して、イスラエルに大勝利をもたらしました。そこでますます、サウル王の厚い信頼を得て、戦士たちの長に任命され、やがてサウルの娘と結婚し、サウルの義理の息子となる訳ですが、ある日、突然、サウルのダビデに対する態度が一変して、ダビデを殺そうとするのです。結局、ダビデはやむなく、外国に逃げたり、何年も荒野の洞窟に住んだりしなければならなくなりました。ダビデは、詩篇57篇の中で、その時の気持ちを表しています。
「私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました」(4―6節)。
この詩の中に、ダビデの悲しみや悔しさがにじみ出ているように感じます。4節をもう一度、見てみましょう。
「私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。」
そのまま、カルトの被害者の気持ちを代弁しているような言葉ではないでしょうか。カルトの教祖はまさに、人を貪り食う人間です。信者を奴隷のようにこき使って、信者のエネルギーやお金を吸い取ってしまいます。『聖神中央教会』のことを思い出します。牧師の永田保という人が、教会の牧師室で未成年の女の子数十人に性的虐待を繰り返していたということで、6年前に逮捕されましたが、聖神中央教会』で被害を被ったのは少女たちだけではありません。献金を強要された信者も多くいると聞いています。月末になると、永田は「今月も全く献金が足りない」と講壇から語った後、個人的に「あなたも、もっと捧げられるでしょう」と信者に献金をアピールしました。そこで、信者が「お金がない」と言うと、「お金がないということは、信仰がないということだ」と言われます。罪責感を覚えた信者は、消費者金融から借りてでも献金をすることになりますが、返済が滞って困っている人が多い、という現実があります。私は教会を出た多くの方々と接していますが、彼らの受けたショックには、計り知れないほど大きいものがあります。
また、先日、沖縄のクリスチャンから、ある週刊誌に載っていた記事のコピーが送られてきましたが、ある著名な牧師が起こしたショッキングな事件のことが書かれています。その牧師は、カウンセリングを受けるために教会に来た37歳の女性に性的関係を強要すると共に、金の貸付を無心するようになりました。ホテルを買い取り、ボランティア活動の拠点とするためということでした。2007年のうちに6回で合計1080万円を、女性は牧師に手渡したり、振り込んだりしたということです。しかし、牧師は返還はおろか借用書を今も書いていません。女性はその後、牧師の金遣いの荒さや嘘、女性への言動に気付き、極度のうつ病に陥ってしまいます。2か月の入院生活を終えて、結局、牧師を訴えることにしました。訴えの内容は、強制わいせつと、金銭被害です。
「彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です」とダビデは言っています。これも、カルトの脱会者が必ず経験することです。カルトは、グループを離れた者に汚名を着せます。それまで、家族のように付き合っていた人々が、手のひらを返すように、冷遇したり、無視したり、根も葉もない悪い噂を広めたりします。カルト特有の、生存術です。脱会者の証言は、グループのイメージに多大なダメージを与えてしまうので、グループを守るために、離れた者を徹底的にやっつけます。しかし、考えてみると、そのような対応はカルトのもろさを暴露していると言えます。そして、その対応が裏目に出ることもあるのです。
今、ブラジルで一般市民の間で、エホバの証人に対する反発が強まっています。その理由は、脱会者の男性が、自分の家族から無視されるようになったことです。ブラジル人は、家族のきずなを大事にする国民性があるので、大切な家族を引き裂く宗教団体を容認できません。ブラジルのマスコミもこの問題を大きく取り上げました。その結果、一般のブラジル人も、ものみの塔協会を批判したり、デモ行進を催したり、広告版に人権の侵害を訴えたりするようになったのです。
今日のセミナーに参加しておられる皆さんも、霊的指導者に裏切られたという経験をされていると思います。先程の話にあったように、性的関係を迫られたとか、お金を奪われたというようなことではないかも知れませんが、皆さんの中で、深い傷となっているのではないでしょうか。また、裏切られているように感じつつ、自分を責めている方もいらっしゃるかも知れません。先程の話の女性は、牧師に対する疑問を抱くようになり、牧師と距離を置こうと決めた時に、牧師が「一緒に住もう」と言い出したそうです。その時点での気持ちを、彼女はこう回想しています。
「神様の愛を伝える牧師である人からの愛を、私はどうして信じ切れなかったのですが、信じて応えてあげなければならないのに、信じ切れない自分が悪い、自分は神に背いているのではないかと、自分を責め始めました。」
これは、カルトの被害者によく見られる、典型的な思考パターンです。確かに、信者側にも問題があるというケースもあります。あるいは、信者が誤解しているとか、被害妄想をしているという場合もあるし、指導者には大きな落ち度が認められない、という場合も考えられます。なるべく多くの情報を集めて、色々な角度から状況を吟味し、冷静な判断を下すことが肝心です。では、何が裏切り行為に相当するのか、具体的に考えてみたいと思います。まず、霊的指導者が嘘をついた、あるいは約束を守らなかったというケースがあります。この場合、信者は間違いなく、裏切られたように感じますが、必ずしも「裏切り行為」とまで言えないかも知れません。誤解があったかも知れません。そんな約束をしていないのに、信徒が牧師の発言を勝手に解釈して、勝手な期待を抱いていたかも知れないのです。当然のことながら、その場合、「指導者に裏切られた」とは言えません。また、確かにそのような約束はしたけれども、その後の様々な状況が発生したために、どうしても約束を果たすことができなくなってしまったというケースも考えられます。先日の東北関東大震災が起きて、電車が動かなかったり、ガソリンが手に入らなくなったりして、今回のセミナーをキャンセルしなければならないかも知れないと思いました。しかし、傷ついた被害者の方々に、「ウィリアム・ウッドにも裏切られた」という思いを与えてはならないと思って、続行することにしました。勿論、キャンセルすることになってとしても、皆さんはきっと赦してくださったでしょう。想定外の状況が発生したからです。こうして、霊的指導者が約束を果たせなかった時に、その指導者を大目に見るべきだと言える場合もありますが、しかし、明らかに信者を裏切っていると判断せざるを得ないこともあると思います。様々な事情が関係しているにせよ、約束が果たせなかった時に、謝罪しない。自分を守るために、明らかに事実と違うことを言う。Aさんに対して言ったことと、Bさんに対して言ったこととが食い違っている。人によって話の内容を変える。人を動かすために、心にもないほめ言葉を言う。このような不誠実な行為が頻繁に見られるようだったら、信徒に対する裏切りだと言えるでしょう。
次に、指導者の実生活の矛盾が見られた場合、信徒が裏切られたように感じることがあります。牧師などは、神に仕える人であり、福音のために献身している人ですから、聖書に忠実に従って、清く歩んでいる人間だと、信徒から期待されます。当然なことです。もし、講壇から語られているメッセージが、説教者の実生活の中で実行されていなかったら、信徒は失望しますが、「神に仕える人」であっても、結局は人間ですから、たまに失敗をすることがあります。その都度、すぐに「裏切り者」というレッテルを張るべきではありません。しかし、明らかに聖書に反する行動が頻繁に見られるようになったとか、矛盾を指摘する信徒が怒鳴りつけられるとか、悔い改めるどころか平然と罪を犯しているなら、これは信徒の群れに対する裏切りだと断言できると思います。
3番目に、霊的指導者が信者を精神的に傷つける場合があります。よく聞くのは、講壇からの個人攻撃です。講壇は、本来、聖なる場所です。そこから人々を養い、力づけるための神からのメッセージが発せられるからです。しかし、残念ながら、講壇が強力なミサイルを発射する基地と化してしまうことがあります。名指しで人を中傷するケースもあるし、名前こそ出ないけれども、誰のことを言っているかが全会衆にはっきりと分かるような間接的な攻撃もあります。また勿論、講壇から下りた後、根も葉もないうわさ話を広めたり、信徒を中傷したりすることもあるでしょう。例えで言うなら、これは羊飼いが羊を叩くようなことです。羊の世話を任されている者が羊を傷つけている訳ですから、これも許しがたい裏切り行為です。
第4番目に、暴力の問題があります。10年ほど前に、静岡県にある教会の噂を聞きました。牧師が信徒に暴力を振っているという話でした。初めは信じられませんでしたが、数週間後に、実際に被害者の方々と会って、直接、彼らから話を聞いて、その恐ろしい現実を認めざるを得ませんでした。「牧師に殴られました。」「棒で頭を叩かれました。」「体中にお灸をすえられて、どれくらいの痛みに耐えられるかを試されました。」「『食べ方が遅い』と牧師に怒られて、お仕置きとして、私たちのまだ2歳の子どもが真っ暗な鶏の小屋に入れられて、恐怖の余り絶叫しました。」これらは暴力の一例に過ぎませんが、その後、私は知識先生と一緒に、その牧師と話をするために教会に行きました。まず、暴力の話が事実であるかどうか、確かめました。「確かに、やっています」と言われました。そこで、「それは、犯罪になりますよね」と言うと、強く否定されました。「霊的訓練の一端だ」と言うのです。私たちは呆れて、言葉も出ませんでした。暴力は例外なく、犯罪であり、教会に対する裏切り行為です。
第5番目に、信徒が献金を強要されているように感じることがあります。これはある意味では、かなり微妙な問題です。というのは、教会は非営利団体であり、信者の献金によって運営されているからです。牧師は、献金の話をしない訳には行きません。教会のビジョン達成のために、献金を促すこともあるかも知れませんが、献金の強要になるとは限りません。ある人は、献金袋が回ってきただけで「献金を強要された」と憤慨しますが、それは極端なリアクションです。献金の強要とは、圧力をかけたり、脅したりして、献金を迫ることを言います。「献金をしない者は救われない。」「もっと献げなければ神の祝福を失う。」献金の強要には、このような言葉が伴います。また、献金の強要が行なわれている教会では、領収証が発行されません。献金の使い方も不透明です。一方、健全な団体は、会計がガラス張りになっています。以上、幾つかのケースを見ましたが、少し、整理ができたのでしょうか。
では、確かに裏切られたと判断した時に、どんな行動を取るべきなのでしょうか。まず、考えられるのは、直接、霊的指導者に対して自分の気持ちをぶつけることです。「私は裏切られたように感じているし、あなたの行動が聖書に反していると思います」と訴えることです。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」(マタイ18・15)。
パウロも、このみことばを実行しました。
「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました」(ガラテヤ2・11)。
勿論、これは大変な勇気の要ることです。自分がこれまで、神の器だと尊敬していた人間と面と向かって、問題を指摘するというのは、なかなかできることではありませんが、自分がイエス・キリストの命令に従っているという確信があれば、力が湧いてくるはずです。
22年前の話ですが、ブリティッシュ航空のボーイング737型の飛行機が墜落して、47名の方が亡くなりました。左側のエンジンから火が出ていたという目撃証言がありました。専門家が機体を詳しく調べた結果、確かに原油漏れが原因で、左側のエンジンに火がついて、操作不能になっていたことが判明しました。しかし、まだ大きな謎が残っていました。ボーイング737型の飛行機は、片方のエンジンだけで十分、飛べるはずだったからです。では、なぜ、飛行機が落ちたのでしょうか。調査が更に進んで、驚くべき事実が出て来ました。パイロットたちが誤って、問題のない右側のエンジンを切ってしまっていたのです。飛行機のコックピットから、エンジンが見えません。つまり、パイロットは、火が出ているほうのエンジンを切ったかどうかを目で確認することができなかったのです。しかし、乗客席からエンジンが見えます。そして乗客の中に、おかしいと思った人が数人いたのです。なぜ、火が出ているエンジンを切らずに、問題のないエンジンを切るのだろうかと疑問に思う人がいましたが、誰も何も言いませんでした。パイロットはプロだから、間違いを犯すはずがないと、考えたからです。その考え方のために、47名の命が失われたのです。教会においても、同じような現象が度々、起こります。
「私はただの平信徒で、牧師は神の選ばれた器だ。牧師の間違いを指摘するようなことはできない。」
こうして、霊的指導者の勝手な振る舞いが容認されて、被害者の数がどんどん増えてしまうのです。言うまでもなく、霊的指導者に聞く耳がなかったということがよくあります。しかし、そうであったとしても、私たちは声を上げるべきです。
次に、霊的指導者を赦すべきかどうかという問題について考えてみましょう。霊的指導者に裏切られて、傷つけられた人が、他のクリスチャンに相談すると、大抵、「赦してあげなければならないよ」と言われます。何か、非常に聖書的なアドバイスであるかのように聞こえますが、場合によっては、更に被害者を苦しめる助言です。自分を傷つけた人間を赦す気持ちになれず、自分を責めることになるからです。もう一度、「赦す」という言葉の聖書的意味をよく考える必要があると思います。
まず、確認しておきたいのは、聖書で使われている「赦す」という言葉は、「赦免する」の「赦」が使われています。「許可する」の「許」ではありません。ですから、クリスチャンが人の罪を赦す際、それは人の罪を許可することではありません。「罪を犯していいんですよ」ということを言っているのではないのです。赦すとは、自分に罪を犯した人に対する報復の権利を放棄することです。ひどいことをされたり、言われたりした時に、通常、人は何らかの形で仕返しをしようとします。自分がこれだけ苦しんだのだから、相手にも同じだけの苦しい思いを味わわせてやろうと考える訳です。また、そのようにするのはごく当然の権利だと思っています。そこで、相手に肉体的、精神的、あるいは経済的なダメージを与えようと具体的な行動を起こします。相手を殴るケースもあります。人の前で相手を罵ることもあります。あるいは法的に訴える場合もあるでしょう。更に、徹底的に相手を無視することによって、相手に反省をさせることもありますが、人を赦すということは、こうした報復を断念して、相手に罪の代価を求めないことなのです。つまり、前と同じように、何もなかったかのように、相手と付き合うことです。言うまでもなく、このような赦しや交わりの回復が可能なのは、罪を犯した人が悔い改めた場合です。
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3-4)。
クリスチャンがこのようなことを行なうことができるのは、神の豊かな愛と恵みによって、自分の罪を赦していただいているからです。イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が赦され、罪の刑罰が免除されました。この恵みを受けている者は、自分に罪を犯した人間に向かって、「あなたを赦します」と言うことができるのです。しかし、相手に罪の自覚がなく、悔い改めも見られない場合はどうでしょうか。そのような人に対して、「あなたの罪を赦しました」と言っても、それは全く意味のない言葉です。本人は、自分が罪を犯しているなどとは全く思っていないからです。反論のある方もきっといらっしゃると思いますが、私のところにカウンセリングに来られる方々に対して、「悔い改めない霊的指導者を赦さなくても良いんですよ」と話します。勿論、ずっと指導者に対する憎しみや恨みを抱き続けることはよくありません。その気持ちを神に委ねるべきですが、何もなかったかのように装って、指導者と付き合う必要はないと、私は思っています。そのような偽善的な振舞いによって、何の良いものも生まれないのです。
続いて、自分を裏切った霊的指導者のグループに留まるべきかどうかという問題を取り上げましょう。これも、被害者からよく相談されることです。皆さんは純粋であり、また非常に真面目なので、グループに留まって、指導者のために祈ったり、あるいは残っている人々を助けるべきではないかと考えたりします。確かに、希望を捨てずに、聖霊の奇跡を待ち望むという信仰も素晴らしいと思います。しかし、私の経験から言わせていただくと、カルト化してしまった指導者が自分の罪に気付いて悔い改めるということは、ほとんどありません。勿論、留まるべきだと思っている方々にはそのようなことは申し上げませんが、留まることによる精神的なストレスに耐えられるかどうかを確認します。権威主義的になっている指導者との交わりを続けることには、かなりの精神的な疲れが伴います。もし、それに耐えるだけの力があるなら、留まっても良いでしょう。しかし、精神的な限界に近付いているように感じたら、自分自身を守るために、離れるべきです。ここでまた、被害者は戸惑います。自分がどうなっても良いから、とにかく指導者と中にいる人々の救いのために何とかしなければならないという責任感が働くのですが、その「私はどうなっても良い」という心は、余り健全な心ではありません。多くの場合、権威主義的な指導者の影響によって、自尊心、あるいはセルフ・イメージが低くなっているのです。ですから、被害者にとって最大の課題は、その自尊心を取り戻すことですが、カルト化した指導者と一緒にいる限り、そのプロセスはなかなか進まないのです。「私はどうなっても良い」ということはありません。あなたは、神の前で貴重な存在です。人を大事にするように、自分をも大事にしなければなりません。
第4番目に、自分の体験を公にすべきかどうかという問題があります。今、インターネットには、多くのカルトに関する情報が流れています。そして、その情報によってカルトの実態が暴かれて、被害を受けずに済んだという方も大勢いらっしゃると思います。先程、紹介した週刊誌の記事には、沖縄キリスト福音センターのことも書かれています。写真も出ています。特に興味深いのは、「インド方面霊的戦線出陣壮行会」の写真です。献身者の一人がインドへの宣教活動に出発する時、仲原牧師や本人は米軍払い下げの軍服を着用して壮行会を行ないました。なぜ軍服なのでしょうか。仲原牧師は「コンバット」などの戦争映画を中核信者によく見せていたといいます。「彼への従順を教え込むために映画を見せていました」と、ある元信者は証言しています。このような情報が流れていれば、誰でも、「おかしい」と感じるはずです。今、ヤフーで「沖縄キリスト福音教会」を検索すると、まず、トップに出て来るのは、「沖縄キリスト福音教会暴行傷害事件」とか、「沖縄キリスト福音教会のカルト化」というような見出しです。沖縄の元信者たちは本当によく頑張っておられると思います。言うまでもなく、これは大変なエネルギーを要することです。また、勇気も必要です。もし、ある程度まで傷が癒されて、精神的に安定したなら、公の場で証言することも良いと思います。そうすることによって、人の役に立ち、カルトの危険性に関する警鐘を鳴らすという貴重な役目を果たすことになるので、自分のカルト経験は無駄ではなかった、この経験も神のご計画の中で用いられるという確信が得られるかも知れません。
第5番目に、法的に訴えるべきかどうかという問題について、一言、お話をしましょう。これも非常に難しい問題で、慎重な判断が求められますが、指導者が明らかに犯罪を犯している場合、迷わずに、警察に被害届をすべきです。そこで、警察の方で立件できると判断されたなら、法的手続きを進めるべきだと思います。復讐するためというより、被害者の数が増えることを阻止するためです。もし、6年前に、一人の被害者のお母さんが勇気を出して、警察に被害届をしなかったら、聖神中央教会の永田牧師は未だに、10代の女の子たちに性的虐待を繰り返していることでしょう。勿論、霊的指導者を法的に訴えようとすると、「人を裁いてはいけないと聖書に書いてあるから、止めた方が良い」というトンチンカンなことを言う人がいます。犯罪を犯している人を訴えた場合、私たちはその人の裁きを国に求めます。私たちが裁くのではないのです。極めて常識的な話ですが、クリスチャンは犯罪を容認してはならないのです。
では、最後に、傷つけられた方々が癒されるためには、どうしたら良いのでしょうか。まず、信用できる人に、自分の悲しみや怒りを正直に打ち明けることです。誰かに、自分の気持ちを受け止めてもらうだけで、随分、楽になります。ついでに、被害者の相談を受ける方々にお願いしたいのですが、とにかく彼らの悲しみを受け止めてあげてください。説教もアドバイスも要りません。肝心なのは、受容です。「大変でしたね」と、悲しみを共有できればそれで十分です。先日、あるカルト化した教会で被害を受けた方から、メールをいただきました。とても長いメールの中で、これまで経験してこられたことを詳しく説明してくださったのですが、それに対して、「大変なところを通られたのですね」と返事をしました。すると、次の日に、こんなメールを送って来てくだいました。
「昨日いただいたウッド先生のメールに『大変なところを通らされましたね。』とあるのを読んで涙が止まらなくなってしまいました。あ~大変だと感じていいのかと・・・。感謝します。ありがとうございました・・・。」
次に、カルト問題に詳しい人間に、カウンセリングを受けることです。カウンセリングを受けることによって、自分の気持ちや考えを整理することができます。カルトで教わったことのどこが正しいのか間違っているのか、なぜこんなことになってしまったのか、少しずつ、分かるようになります。その中で、自分のカルト脱会の決意が間違っていなかったと確信が持てます。その確信は、新しい人生を始めるためには、とても重要です。マンツーマンのカウンセリングも良いですし、グループ・カウンセリングも効果的です。私たちのカルト研究リハビリ・センターで、元カルト信者のためのグループ・カウンセリングを定期的に行なっています。
第3番目に、新しい交わりを求めることです。人間不信に陥って、人との接触を避けるようになる方もいますが、それではなかなか、回復が進みません。何とか、希望を捨てずに、チャレンジ精神をもって、新しい出会いを求めていただきたいと思います。きっと、仲間として受け入れて、支えていてくれる人々がいるはずです。最後に、決して裏切るようなことはなさらない、真実な神を見上げることです。人間は私たちを裏切ります。約束を破ります。嘘をつきます。しかし、主は人間とは違います。
「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない』」(ローマ10:11)。
主は失望させません。必ず、最善に導いてくださいます。また、すべてを働かせて、益としてくださ
います。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
この聖句は、元カルト信者のリハビリの鍵となるような個所だと思います。この約束を信じることができれば、早く立ち直ることが可能になります。カルトによって多くのものを奪われた。名ばかりの霊的指導者の身勝手な言動によって、死ぬほどの苦しみを経験した。しかし、主はそのすべてを御存じです。そして、その苦しみを益に変えることがおできになるのです。あなたの悲しみを、決して無駄にはなさいません。必ず、ご自身の目的のために、生かしてくださるのです。