目次
第5章:NARの問題点 その三 「極端な体験主義・神秘主義」
教会に酔っ払い宴会?
カナダのトロント市にあるトロント・エアポート・ビンヤード教会(現在、キャッチ・ザ・ファイヤー・トロント)。1994年の1月に始まった「リバイバル」により、当教会は世界から注目されるようになった。その理由は、数々の「霊的現象」にあった。牧師が頭に手を置いて祈ると、人が倒れる。激しく震えたり、転げ回ったりする人もいる。ある人は突然、ゲラゲラ笑い出して、止まらない。ライオンや犬の声で吠える人もいる。また、「聖霊に酔ってしまった」と言って、千鳥足で歩く人、呂律が回らなくなった人も続出。
「まるで酔っ払い宴会ではないか」という批判に対して、教会の指導者たちは、「我々は頭(理性)を捨てて、神に身を委ね、聖霊を楽しんでいる。これは神の新しいみわざであって、霊的でない人には分からない」と説明する。彼らは聖霊に対して「バーテンダー」と呼ぶこともある。更に、集会における現象が奇妙さの度を増せば増すほど、「奇妙な現象だからこそ、聖霊から出ているに違いない」と屁理屈を言う[1]。
人々は、聖書のみことばに飢え渇いて、トロントの教会に集う訳ではない[2]。彼らはあくまでも新しい刺激、新しい霊的体験、良い気持ちになることを求めているのだ。
捨てられたゴミにも預言的なメッセージが秘められている?
ミシェル・マックカンバー氏(モーニング・スター・ミニストリーズ元スタッフ)の証言によると、日曜礼拝のメッセージの中でロビン・マックミリン氏(リーダーシップ・チームの一人)は、家の近くのゴミ・ステーションで拾ったゴミ袋から、一つ一つのゴミを出しながら、「このゴミは、預言的な真理を象徴している。神がこれを通して我々に何を語っておられるかを見極めなければならない」と語ったそうだ[3]。
モーニング・スター・ミニストリーズでは、日常生活のあらゆる出来事に「霊的な意味」が付けられた。例えば、たまたま時計を見て、5時55分になっていたら、「神様が3重の祝福を与えようとしておられるに違いない」と考える。あるいは地面に落ちていた1ペニーのコインを拾うと、小銭(英語:チェンジ)に引っ掛けて、「今は変化の時だ」と言う。急に風が吹いて来たら、「聖霊がみわざを現そうとしておられる」と感動する。
ワールドカップ・サッカーの決勝戦で仏陀対イエスの霊的戦い?
シンディー・ジェイコブス著の『神の声』の中で紹介されている話だが、1994年の7月にアメリカのカリフォルニア州で行なわれたブラジル対イタリアの決勝戦の時に、競技場のピッチでの戦い以外に、霊の世界において「王の王の軍勢と、暗闇の支配者であるサタンの軍勢」の激しいバトルが繰り広げられていたそうだ。試合は同点のまま、ロスタイムに入った。ブラジルのクリスチャンたちは、熱心なキリスト教徒が何人もいる自国のチームが勝って、神の栄光が現れるように熱心に祈った。一方のイタリアの代表的な選手ロベルト・バッジォは、自分が仏教徒であることを公言していた。そこで、試合中に「これは、仏陀対イエス・キリストの霊的戦いです」と、あるテレビ・アナウンサーは言っていたが、両サイドは点が入らず、いよいよPK戦になった。ブラジルが3対2でリードを保ったまま最終キッカーであるバッジォの番となるが、彼はゴール左上にはるか高く打ち上げてしまい、その瞬間、ブラジルの優勝が決まった。
ジェイコブス氏によると、バッジォの失敗には、背後の霊の世界で何が起こっていたかを推測する手掛かりがある、と言っている。つまり、ブラジルのクリスチャンたちの祈りの支援があったから、天の軍勢が悪魔の軍政に勝ち、その結果、バッジォがPKを外しただろう、という話だ(373-375ページ)。しかし、サッカーの解説者たちは、バッジォが準決勝で右足のふくらはぎを痛めたことが大きく影響したのではないか、と解説している。彼の怪我も霊の戦いの結果として起こったと言われればそこまでだが、ありとあらゆる出来事を無理矢理に「霊の戦い」に結びつけることは、NARムーブメントの渦中にいる人間の特徴だと言えよう。一般の人に見えない霊の世界の秘密情報を把握しているとか、霊の世界に通じているから歴史の流れを予測する力があるとか、天に連れて行かれて特別な霊的な体験をしていると、自らの優越性を強調する。と同時に、同じような経験をしていない一般のキリスト教会を「貧弱なキリスト教」と批判するのだ。
神の再現?
『天が地に侵入するとき』の中で、ビル・ジョンソン氏はクリスチャンの本来あるべき姿について、次のように述べている。
「私たちは神の証し人として存在しています。この証しとは、『現わす』ということで、具体的には神を『再現』することを意味しています。それ故、力無くして神を再現することは、大きな不足となるのです。神にとって超自然は当り前のことなので、その力を現わすこと無しに神の証しをするということは、実際には不可能です」(171ページ)。
ここに書かれているように、神を再現すること、つまり神の超自然的な力を人々に見せることは、クリスチャンにとっては極めて重要なこととされている。既に述べているように、ビル・ジョンソン氏のベテル教会内にある「ベテル超自然的ミニストリー学校」において、学生たちは奇跡を行なう技術を身につける。別の言い方をするなら、「天の力を解放する」ノーハウを学ぶのだ。
「神に明け渡された手は、そこにある状況の中に天の力を解放します。それは霊の世界の中で稲妻のように放たれます」(同書、75ページ)。
学生たちはこの言葉を信じて、街に出かけ、病人を見つけてはその癒しのために積極的に祈る。彼らは体の病気を心の罪と同じように捉え、一般のクリスチャンのように、病気を神のご計画の中で許された試練として、そこに神の目的があるいう考え方は全くない。むしろ、そのような試練を与える神を、「虐待者」と見なす(同書、45ページ)。
しかし、すべての人が癒される訳ではないようだ。ジョンソン氏もそのことを認めている。
「もちろん私は、祈った全ての人の癒しを見ている訳ではありませんし、祈った人の数は未だ千人にも及びません (注:英語の原文は、”I’m not batting even close to a thousand”となっている。正しくは、「私の打率は10割から程遠いものです」となる)。しかし、誰のためにも祈らないよりも、祈った時の方が人は多く癒されるはずです!」(同書195ページ)。
このように、ジョンソン氏は、すべての人が癒される訳ではないと正直に告白しながら、『天が地に侵入するとき』の中に、癒されなかった人々への配慮の言葉が一つもない。実際に、彼らは自分の信仰が足りなかったから奇跡が起こらなかったのだと自分を責め、悩み苦しむことになる。人の病気のために祈って、何も起こらなかった時も、同様だ[4]。
キリスト以上の奇跡?
NARの指導者たちは、伝道して行く上で、奇跡は欠かせないとしている。しかし、彼らの主張は、そこに止まらない。イエス・キリスト以上の奇跡を行なうのだ、と言う。その聖書的根拠とされているのは、ヨハネの福音書14章12節だ。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」
NARの聖書理解では、キリストは人となられた時、ご自身の神性を捨て、超自然的な能力を持っていなかったが、人として聖霊の油注ぎを受け、奇跡を行なった。だから、今でも信仰を持つ者は聖霊の力によってキリストと同じような奇跡、あるいはそれ以上の奇跡を行なえるようになる、ということだ。
今後、見られるようになる奇跡として、次のようなことが起こるそうだ。
- 建て物に手を置いただけで、病院の患者が全員、癒される[5]。
- 洪水で氾濫した川の流れを、一言で変えてしまう。
- 命じることによって、山を海に移す。
- キリストの5000人の給食の奇跡のように、日常的に祈りだけで食べ物を増やす。
- 預言的な言葉によって不治の病に対する治療法を明らかにする。
- 天使たちと頻繁に会談をする。
このような奇跡を行なう使徒たちは、マスメディアの注目の的となり、毎日のようにその奇跡の数々について、ニュースで報道される。そして、ニュースで奇跡を見た多くの人々が、キリストを信じるようになる。
更に、使徒たちや預言者たちは、いよいよ大きな力を持つようになり、ついに死なない人間になる、という。[6]
神の主権
聖書の基本的な教理の一つとして、「神の主権」がある。もろもろの権威や権力の上にある最高の統治権・支配権を創造者なる神が持っておられる、という教えだ。神は絶対的な主権者として、ご自分のみこころをなされる。相対的な存在である人間は、神の主権を侵して、神に指図したり、要求したりしてはならない。下記の聖書個所に書かれている通りだ。
「万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを戻しえよう」(イザヤ14:27)。
「これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう」(イザヤ43:13)。
「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」(詩篇33:10-11)。
「その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか』と言う者もいない」(ダニエル4:34-35)。
このような聖書個所からは、NARで見られる独特の神学は生まれない。奇跡は人間が行なうものではない。神に要求できるものでもない。神の主権の中で、神が良いと思われる時になされるみわざだ。天の力や稲妻も、人間の手によって解放されるものだとは到底、考えられない。まして、ビル・ジョンソン氏が主張するように、人間が「神の臨在の管理者」にはなり得ないのだ(『天が地に侵入するとき』、195ページ)。
「しるし」は必ずしも聖霊によるものではない
NARにおいて、数々の「しるし」や霊的現象は、使徒たちの主張の正しさを証明するものだとされている。神が共におられるのでなければ、あのような奇跡は起こらないはずだと言われるが、彼らの単純明白と思われる論法は、聖書と真っ向から対立する。聖書は、偽預言者も、また「不法の人」と呼ばれる人間も、「しるし」を行なうと明記している。
「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、『さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう』と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい」(申命記13章1―5節)。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしにいうでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(マタイ7章21―23節)。
「そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」(マタイ24章23―24節)。
「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた」(黙示録13章12―14節)。
このように、「しるし」に心を奪われやすい人間に対して、聖書は厳しい警告を与えている。「預言者」や「使徒」と呼ばれる人々の主張や教えを聖書的に吟味することなく、ただ不思議な現象が起こっているというだけの理由で彼らに従うことは、極めて危険なことだ。
「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです」(2テサロニケ2章7-12節)。
ここに書かれているように、「しるし」によって惑わされないために必要なのは、真理、つまり聖書への愛を失わないようにすることだ。
- Brad Christerson & Richard Flory, The Rise of Network Christianity (New York: Oxford University Press, 2017), 24.
- 同書、108.
- Mishel McCumber, The View Beneath (Canada: Mighty Roar Books, 2016), 113.
- R. Douglas Geivett, God’s Super Apostles (Wooster, OH: Weaver Book Company, 2014), 102.
- Rick Joyner, The Harvest (Pineville, NC: MorningStar Publications, 1989), 34.
- Bill Hamon, Apostles, Prophets, and the Coming Moves of God (Santa Rosa Beach, FL: Destiny Image Publishers, 1997), 263-265.