第4章:NARの問題点 その二 「聖書の軽視」

プロテスタントの三大原理

宗教改革におけるプロテスタントの三大原理として、「信仰義認」、「万人祭司」、「聖書のみ」がある。「聖書のみ」とは、人が救われ、クリスチャン生活を送るために必要な教えがすべて聖書に含まれており、伝統や、ローマ法王の宣言や、新しい啓示等によって補われなければならない不足は何一つない、という意味だ。『ウェストミンスター信仰告白』において、その聖書観は次のように表されている。

「神がご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されており、正当で必然的な結論として聖書から引き出される」(第1章6節)。

聖書自体も、同じように述べている。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(2テモテ3:16-17)。

NARの信仰の実態

NARの使徒たちは、「我々もプロテスタントの信仰である」と主張するが、実際は「聖書のみ」を否定している。彼らは絶えず、「新しい啓示」の必要性を訴える。それは、自分たちが描く終末のシナリオに、明白な聖書的裏付けがないからだ。彼らは「聖霊の新しい啓示」、「聖霊の導き」という魔法の言葉を使えば、聖書によって拘束されることなく、自分の思い通りに、自由に行動できる訳だ。

「新しい啓示は聖書の聖典に加えられるものではないし、聖書を補足するものであって、聖書と矛盾する訳ではないから、『聖書のみ』の否定には当たらない」

と、NARの関係者は苦しい弁論を呈するが[1]、預言者による「新しい啓示」がNARの支援者たちの信仰生活に多大な影響を及ぼすこと、また、聖書と同等の権威あるものとして受け止められていることは明らかだ。更に、使徒たち(預言者たち)は、その啓示に対する絶対服従を求めている。

著名な預言者で、5万人のクリスチャンに対して個人的な預言をし、「預言者の父」と呼ばれるビル・ハモン氏は、預言者の務めについて、次のように述べている。

「神によって任命された預言者たちは、個人、教会、あるいは国々に対して、指示、矯正、導き、そして新しい啓示を与える権利を持っています[2]。」

また、預言者とクリスチャンとの関係について、こう語っている。

「神の預言者を拒絶する者は、神を拒絶しています。また、預言者を認めず、預言者に語ることを許さないなら、神に対して『何も語るな』と言っているのと同じです[3]。」

「昔からそうであったように、今も、特にこの預言者のムーブメントにおいてそうですが、私たちが成功するか失敗するか、死ぬか生きるか、奴隷のままでいるか自由になるかは、神によって立てられた預言者たちにどう応答するかによって決まります。国々の盛衰でさえ、預言者によって語られた神のみことばに従ったかどうかで決まるのです[4]。」

リック・ジョイナー氏の驚くべき主張

リック・ジョイナー氏は、その著書『ファイナルクエスト』の中で、「預言的な啓示」に幾つかの段階があると説明してから、次のように述べている。

「さらに高次元の預言的体験というものがあります。それは、恍惚体験と呼ばれるものです。たとえばペテロは初めて異邦人に福音を語るためにコルネリオの家へ行くよう戒めを受けた時にこの体験をしており、パウロも使徒の働き二十二章にあるように、神殿で祈っている時に同様の体験をしています。この恍惚体験は、聖書にある預言者たちの間では共通して見られるものです。…これは、エゼキエルが頻繁に体験し、あるいは恐らくヨハネが黙示録を記した時に幻を見た体験に等しいものではないかと思います。ところで、本書に著した幻は、すべてある一つの夢に端を発しています。その幾つかは主の濃厚なご臨在の中で与えられたものですが、ほとんどのものはさまざまな次元の恍惚体験によるものです」(9ページ)。

こうして、ジョイナー氏は大胆にも、自分の著書はペテロ、パウロ、エゼキエル、ヨハネと同じレベルの「恍惚体験」に基づいて書いたと主張している。したがって、当然のことながら、そこに聖書と同等の権威があるという話になるのだ。

「七つの山の制覇」・「霊的戦い」と聖書

前述のとおり、NARの中心的なビジョンは、「七つの山」(宗教界、家庭、教育界、政府、マスメディア、芸術界・エンターテインメントの世界、ビジネス界)の制覇だ。この七つの分野にクリスチャンの影響力が増せば増すほど、人間社会の真の変革が可能になるという話だが、「七つの山の制覇」に関する聖書的言及は皆無だ。これは元々、ランス・ウォルヌーという預言者が受けた啓示だそうだ。[5]

NAR特有の「霊的戦い」説についても同様のことが言える。例えば、「霊的戦い」の重要な要素とされている”Spiritual Mapping”(「霊的地図作り」)がある。「霊的地図作り」は一つの地域の調査から始まる。どのような罪が横行しているか、どこで偶像崇拝やオカルト的な儀式が行なわれているか、過去にどのような事件が起きているか、などの情報を集めて、悪霊の力が特に集中している場所を予想する。また、預言者の協力を得て、その地域を支配する悪霊の名前を突き止める。次に、悪霊との対決に挑む。悪霊が君臨すると思われる場所に出向き、そこで執り成しの祈りを捧げたり、悪霊を縛ったり、神の勝利を宣言したりするのだ。

2010年8月6日に、一つの祈りのチームが、ジョン・ベネフィル使徒と共に、カリフォルニア州のハリウッドを見下ろす丘の上から、「バアル」という名の悪霊と対決した。離婚を引き起こす「バアル」を縛る祈りをすると、風が吹いたそうだ。神の御霊によって町が清められた、と参加者たちは感じた、という。[6]

しかし、聖書を開くと、「霊的地図作り」の重要性を示す個所は見当たらない。使徒の働きに詳細に記されている初代教会の伝道記録を見ても、パウロなどが町の調査をしたり、地域を支配する霊と対決したりする場面は一つもない。彼らは福音を伝えることによって、人々の「目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」たのだ(使徒26:18)。

「神の言葉」を語る預言者たち

1999年より、毎年、 “Apostolic Council of Prophetic Elders” (預言者的長老たちの使徒的協議会、シンディー・ジェコブス代表) が開かれている。20―25人の預言者たちが年末に集まり、次の年に関して神から示されていることを話し合う。2018年度の預言を見ると、それぞれの預言者のネットワークの支援者向けの励ましの言葉が目立つ。「今年こそ、神はあなたに祝福と繁栄を与えてくださる。あなたはそのように信じなければならない」とか、「あなたが堅く信仰に立つなら、多くの奇跡が起こるであろう」などと書いてある。「あなたの今年の運勢」の本のような印象が否めないが、「ハリウッドにおいて倫理的改革が起こる」、「クリスチャンへの富の大移動が始まる」などの漠然とした預言もある。しかし、また、「キム・ジョンウンは必ず、権力の座から引き下ろされるドラマが起きる」という具体的な預言も見られる。いずれにしても、毎年APCEから出る預言は、 “The
Word of the Lord” (「主のみことば」) として発表される。

当然のことながら、「主のみことば」は、預言者たちのサポーターの生活に大きな影響を及ぼす。2005年版の「主のみことば」には、アメリカのロスアンゼルスで大地震が発生すると書かれていた。その理由は、幹細胞の研究を許可する法律が通ったことに対する神の裁きだということだったが、南カリフォルニアから住居を移した人々が多数いた[7]。また、「主のみことば」によって自分の投資計画を変える人もいる。こうして、サポーターと預言者たちの間に、依存関係が生まれている。彼らは祈りと聖書朗読による神との交わりの中でみこころをわきまえるのではない。預言者の言葉によって振り回されているのだ。

聖書を読まなくなるクリスチャン

前述のとおり、NARの主だった使徒として認められているリック・ジョイナー氏(モーニング・スター・ミニストリーズ創立者)がいる。彼は使徒、あるいは預言者として多くの新しい啓示を発表しているが、そのことによってスタッフも教会員も、聖書に対する見方が激変するそうだ。
元スタッフのミシェル・マックカンバー氏は、その著書 The View Beneath (下から見た光景) の中で、自分がモーニング・スター・ミニストリーズに行って間もなく、聖書を読まなくなったと証言している。預言者からの啓示があるから、聖書朗読の必要性を感じられなくなった、という。[8]

聖書研究家はパリサイ人?

ベテル教会のビル・ジョンソン氏は、その著書『天が地に侵入するとき』の57ページで、NARの流れに乗らない人々について、次のように述べている。

「リバイバルに対する反対の多くは、魂主導型のクリスチャンからやって来るのです。使徒パウロは、そんな彼らのことを、『肉の人』と呼んでいます。彼らはどのように聖霊によって導かれるかを学んでおらず、彼らの理性によって理解できない御言葉と衝突してしまうのです」
(注:英語の原文には、 “Anything that doesn’t make sense to their rational mind is automatically in conflict with Scripture” となっているが、「彼らにとって、自分の理性によって理解できないことはすべて自動的に、聖書に反することだと見なされる」の方が正確な訳と思われる)。

こうして、NARのムーブメントを批判し、「それは聖書に反することではないか」と指摘する人間は、「どのように聖霊によって導かれるかを学んでおらず」、「肉の人」とレッテルを貼られる。また、NARムーブメントの中で見られるような霊的体験をしていない人は、例え真面目に聖書を勉強しても、「霊的に死んでいる」とか、「パリサイ人だ」とか、「宗教の霊に取りつかれている」と批判される。「人間の理性で霊的事柄を理解できない」と言われることもある。確かに、旧約聖書の箴言に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」(3章5節)と書かれている。自分の理性の限界を認めることは必要だ。しかし、聖書は「理性を捨てるな」とは言っていない。神からの賜物として感謝しつつ、それを正しく、謙虚に用いるべきだ。そうしなければ、この世で生きることが困難になる。日常生活において、自分の理性で考えて、判断しなければならないことが多くあるからだ。その決断力や判断力が弱まると、人に依存しなければならなくなる。ここに、NARの指導者たちの狙いがあると言えるかも知れない。「自分の理性を捨てよ。何も考えずに、預言者や使徒の指示に従え」と言えば、無条件に自分に聞き従う人間が生まれる。そうすると、指導者たちはそれぞれのネットワークにおいて、どこの国の大統領や総理大臣よりも強力な権力を握ることになる。


  1. C. Peter Wagner, The New Apostolic Reformation is not a Cult, Charisma News, August 24, 2011.
  2. Bill Hamon, Apostles, Prophets, and the Coming Moves of God (Santa Rosa Beach, FL: Destiny Image Publishers, 1997), 123-124.
  3. 同書、8.
  4. 同書、178.
  5. Lance Wallnau, The Seven Mountain Mandate (Shippensburg, PA: Destiny Image Publishers, 2013).
  6. R. Douglas Geivett & Holly Pivec, A New Apostolic Reformation? ((Wooster, OH: Weaver Book Company, 2014), 156.
  7. 同書、141.
  8. Mishell McCumber, The View Beneath (Canada: Mighty Roar Books, 2106), 62.