目次
第3章:NARの問題点 その一 「行き過ぎた権威主義」
二つのキーワード
カルト問題を検証する際、二つのキーワードが浮上して来る。「権威」と「コントロール」だ。カルト化した団体のリーダーは、例外なく、自分の優越性を強調する。神の啓示を受けたとか、特別に聖霊の油注ぎを受けたとか、不思議な霊的体験をしたと言って、その特異な体験に基づいて、「私は神の代弁者だ」、「私はこの時代のために立てられた神の器だ」、「パウロと同等の権威を持つ使徒だ」と主張する。当然のことながら、一般の信者は「未熟な者」、「何も分からない者」、「霊的にレベルの低い者」と見なされる。そこで、マインド・コントロール的な関係が生まれる。つまり、指導者を神の偉大な器と認めた信者は、指導者に依存するようになり、「指導者に従うことイコール神に従うことだ」という思考パターンに陥り、その結果、自分で物事を考えたり、判断したり、決断したりする力が著しく低下してしまう。最終的には、リモコンで操作されるロボット状態になってしまうのだ。
マインド・コントロールの怖さは、人間が何も考えずに、「神からの命令だ」と信じて、法律に反するようなことでも平気でやってしまう、ということにある。また、誰かのマインド・コントロール下にある者は、自らの人生の責任を放棄しているため、人間としての成長が止まってしまう。これも大きな悲劇だと言えよう。
マインド・コントロールと洗脳の違い
マインド・コントロールは洗脳とは基本的に異なるとされている。洗脳の場合は、必ず、強制が伴う。長期間にわたって本人が聞きたくもない情報を無理矢理に聞かせて、考え方を変えようとする。初めのうちは、本人は自分を変えようとする相手を「敵」と見なし、必死に抵抗する。しかし、時間が経つに連れて疲れを覚え、抵抗できなくなる。したがって、結果的にその思考、信念、価値観等が別人のように変わってしまうのだ。
一方、マインド・コントロールでは、本人は自分を再教育しようとする人間を「敵」ではなく、「友」と見なす。自分の人生のためになる貴重な情報を聞かせてもらっていると思って、最初から再教育のプロセスにおいて自ら協力する。だから、コントロールされている自覚がない。そのようなことから、洗脳よりも、マインド・コントロールのほうが厄介な問題とされているのだ。
「使徒」としての権威
NARの使徒たちは、自分のネットワークにおいて、絶対的な権威を持つ。新約時代の使徒たち、あるいは旧約時代の預言者たちと同等の権威を持つとされるから、彼らの言うことはすべて、神の言うことと受け止められる。誰も、使徒を批判する者はいない。「ノー」と言える人間も一人もいない。逆らう者は、「裏切り者」、「聖霊を消す者」、「一致を乱す者」、「悪霊に取りつかれた者」とレッテルを貼られる。また、使徒に従わない人間に対して、脅しの言葉が飛ぶ。悔い改めない場合、「神に裁かれる」、「病気になる」、「家庭に不幸なことが起こる」、「交通事故で死ぬ」と言われるのだ。
健全な組織の場合、必ず、権威(権力)の悪用を防止する機能が働く。チェック・アンド・バランスという言い方をするが、カルト化した団体には、これが存在しない。教祖は独裁者のように振舞う。
C・ピーター・ワグナー氏は、その著書 Churchquake の中で、この問題を取り上げて、「使徒は誰にも責任を問われないのではないか。意見できる人がいないのではないか」という批判に対し、「これはとてもトリッキーな(微妙な)問題です。まだ結論が出ていません」と答えている(123ページ)。
権威の根拠とされる聖書個所
自分たちの霊的権威を正当化するために、NARの使徒たちは主に、三つの聖書個所を用いている。
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペソ2:20)。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです」(エペソ4:11)。
「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです」(1コリント12:28)。
使徒たちは預言者たちと共に教会の土台的存在であり、聖職者のリストの中で第一に挙げられているから、最上位にいる、という論理になる。
ちなみに、ほとんどのプロテスタントの教派において、使徒職は初代教会の形成期に必要だったが、聖書が完結している今、必要ではないと理解されている。中には、海外宣教や開拓伝道に携わる者に対して、「使徒的な働き」という言い方をする教団もある。また、例外的に、一つの地域にある多数の群れに対して総括的な責任を持つ者としての「使徒」を認める教会もあるが、彼らに新約時代の使徒と同等の権威を認める教団は、存在しない。
NARの主張と食い違う聖書個所
自分のネットワークの中で、絶対的な権威をもって支配するNARの使徒たちの論理に対して、イエス・キリストは全く違ったリーダーシップのあり方について語っている。
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』」(マルコ10:42-45)。
ここで、イエス・キリストは、世的な指導者と、霊的な指導者とを比較しておられる。世的な指導者の特徴は、人を支配することと、人の上に立って権力をふるうことだ。つまり、この世の指導者は、例え人の幸せ(人権)が犠牲になっても、権威を振りかざして、自分の考え(政策、計画、ビジョン)を優先し、それを押し通す。それに対して、真の指導者はしもべだと、イエスは語られる。それは、人々の霊的・精神的な成長や幸せを優先し、人々に仕えるという意味だ。
更に、初代教会の指導者たちとNARの使徒たちの生活を比較しても、その差は歴然としている。高級車を乗り回し、豪邸に住み、どこへ行ってもVIP扱いを受けるNARの使徒たちに対して、パウロは自分の生活の厳しい現状を次のように述べている。
「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです」(1コリント4:11-13)。
権威主義による指導は教育の基本的理念に反する
教会における教育にしても、学校における教育にしても、あるいは家庭における教育にしても、その究極的な目標は、自立した人間の養成にある。つまり、一人で物事を考えて、判断し、また決断することのできる人間に育てることだ。
しかし、前述のとおり、権威主義によるマインド・コントロール的な教育(訓練)は、自立を妨げるばかりか、依存型の人間をつくってしまう。
ペテロも、キリストと同様に、支配によるリーダーシップを否定している。
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」(1ペテロ5:2-3)。
ここに明記されているように、聖書的牧会は支配ではない。支配は成長を促さない。「霊的指導者である私に従え」と命令しても、自立した人間は育たない。自分で考えようとしない人間になってしまうだけだ。一方、模範を示すことは、自立を促す。命令されなくても、圧力をかけられなくても、脅されなくても、人は模範を見て、同じようになりたいと自ら考えるのだ。