視点の転換
2012.2.16万事を益としてくださる神
2012.2.16ある綱渡りの名人が、長いロープを張って、ナイアガラの滝の上を行ったり、来たりしていました。その時、大勢の人々が、はらはらドキドキしながら、彼を見守っていました。また、彼が無事に渡って、戻って来た時、盛大な拍手を送り、「凄い。素晴らしい。」と彼の秀でた実力を称えました。
一礼をしてから、綱渡りの名人は大衆に向かって、更に大胆な計画を打ち明けました。
「ありがとうございます。今度は、誰かをおんぶして、渡って来ようと思います。」
大衆はますます、興奮してきました。そして、前列にいた一人の男性が大きな声で叫びました。
「素晴らしい。あなたならきっとできる。何の問題もないだろう。」
綱渡りの名人は彼の顔をじっと見据えて言いました。
「じゃー、あなたをおんぶして、やってみましょう。」
すると、男は慌てて、「いやいや、結構です。遠慮します。」と答えたというのです。
聖書には、こう書かれています。
「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。・・・・・・ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」(ヤコブの手紙2章17、21節)。
聖書は、知的に同意することと、心から信じることとをはっきりと区別しています。知的同意とは、例えば、綱渡りの名人を口先で称えるだけで、彼の招きに応答しないことです。言うまでもなく、彼におんぶをしてもらって、実際にナイアガラの滝を渡らなければ、その真の実力を体験できません。
同じように、「キリスト教は素晴らしい宗教だと思います。私は聖書が大好きです。」と言っているだけでは、神の救いや力を経験することはありません。神の御声に応えて、自分の身を神に委ねない限り、何も始まらないのです。信仰とは、全面的に神に頼ることです。例えで言うなら、それは自分の全体重を神にかけることであり、神におんぶしていただくことです。具体的には、次のように祈ることです。
「神様、私は自分の力ではどうすることもできません。私の人生をあなたに委ねます。私の思いではなく、あなたのみこころがなるようにしてください。」
このような信仰をもって、神に向かって一歩を踏み出すなら、神はしっかりと私たちを受け止めてくださり、担ってくださいます。それは、冒険とスリルに満ちた人生の始まりです。周りの人々(観衆)から見れば、無謀なことのように見えるかも知れませんが、神の驚くべき力を確信している者は、神の腕に抱かれて、全く憩うことができます。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。・・・・・・たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23篇1、4節)。
あなたはまだ、観衆の中で、綱渡りの名人をただ眺めていますか。「凄い人だ」と口で称えているだけですか。それとも、心から彼の実力を信じて、自ら進み出て、「一緒にナイアガラの滝を渡らせてください」と願い出ていますか。あなたの決断次第で、人生が大きく変わります。躊躇していると、チャンスを見逃してしまいます。あなたも、勇気をもって、自分の身を造り主なる神に委ねてください。