ノルウェーのエネバックという町に、今年で九〇〇年になる教会があります。一一〇五年に建設された教会です。中に入ると、祭壇の近くの壁に、非常に興味深い絵が画いてあります。悪魔の誘惑を受けている女性の絵です。絵の上に、ラテン語で「プライド」と書かれています。また、絵の下に誘惑の内容が記されています。悪魔は、バター作りをしている女性に、こうささやいています。
「もし、あなたが私に従うなら、あなたを一番のバター作りの名人にしてあげよう。」
何とも言えない、微笑ましい絵ですが、九〇〇年前の女性は、きっとこのようなプライドの誘惑と戦ったのでしょう。二一世紀の私たちは、バター作りの名人になるということに対して、全く関心はないでしょうが、他の人より認められたいとか、評価されたいとか、人より上の地位に上り詰めたいという思いは、九〇〇年前の人間と同じように、根強いはずです。
聖書も多くの箇所で、人間のプライドの問題について、警告しています。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言十六章十八節)。
「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」(ペテロの第一の手紙五章五節)。
聖書が警告するプライドは、まず、自分の持っている力や才能が神からの贈り物であることを忘れてしまうことから始まります。次に、神のみこころと関係なく、自分勝手な目的のために自分の賜物を用いるようになっていきます。最後に、周囲の人間の賜物を認めなくなり、「私が一番だ」と思い込み、人を見下すようになるのです。
逆に、神から与えられた贈り物だと確信し、神の栄光と人の幸せのために、自分の才能を積極的に用いていくことは、プライドではありません。ですから、九〇〇年前のノルウェー人の女性が仮に、一人でも多くの人に美味しいバターを食べさせてあげたいと思って、腕に磨きをかけようと努力した場合、それはプライドとは言えないわけです。
よく言われるように、私たちはナンバーワンになることよりも、オンリーワンになることを目指すべきです。つまり、ライバルとの競争を意識せずに、神から与えられたユニークな才能をどう活かしら良いかを考えることです。
あなたの賜物は何ですか。神の栄光のために豊かに用いられるように、お祈りします。