信じる者の力
2017.5.7SNSの落とし穴
2017.12.4 第二次世界大戦後、昭和天皇は皇太子明仁様の教育について悩んでおられました。新しいスタートを切ったばかりの日本において、天皇陛下の象徴としての責任を果たすために、今までとは違った教育を受けさせる必要があると考えました。また、国際化が急速に進むであろう世界の様々な舞台において、平和の架け橋として十分に活用できるように、特に英語を覚えさせなければならないと痛感されたようです。
そこで、1946年に、明仁様の家庭教師として、米国より、エリサベス・ヴァイニングという44歳の女性作家を日本に招待しました。日本ではヴァイニング夫人の名で知られていますが、プロテスタントの一派クエーカー派に属する敬虔なクリスチャンでした。平和、男女や民族の平等、質素な生活、個人の誠実さを強調する群れです。ヴァイニング夫人はその著書『皇太子の窓』の中で詳細に述べていますが、4年間、明仁様の家庭教師として働きながら、皇后様、また明仁様のお姉さんにあたる重子様、和子様、厚子様にも英会話を教えました。その中で、聖書の話をする機会も多数ありました。ヴァイニング夫人は天皇一家とかなり親密な関係を築き、皇居や葉山御用邸などに何度も呼ばれて、食事をしたり、ゲームをやったりもしました。とても充実した4年間でしたが、宮内省(後の宮内庁)の縛りとの戦いが絶えない四年間でもあったのです。
ヴァイニング夫人が最初に驚いたのは、ついて来る職員の数の多さです。皇太子の世話をする人、守る人、助言をする人も、授業に参加して来ます。皇太子に質問をして、意見を求めても、一三歳の明仁様はすぐに、アドバイザーの方に視線を送って、助けを求めます。これでは皇太子の英語教育は進まないと判断したヴァイニング婦人は、辛抱強く宮内省と交渉して、少しずつ助っ人の数を減らしてもらい、ついに一対一の授業が可能になったのです。宮内省にとっても、また明仁様にとっても、かなり思い切った決断でしたが、明仁様が自立した大人になるための大きなステップとなりました。
ヴァイニング夫人が次に挑んだのは、色々な国の同年齢の少年とどのように出会わせることができるかという問題です。これも、皇太子の視野を広げ、英会話の力を向上させるために必要不可欠なことでしたが、これにも宮内省は難色を示しました。今までの慣例にないことだからです。「皇太子様に悪い影響を与えるのではないか」という不安の声も上がりましたが、結局、ヴァイニング夫人の強い要求が受け入れられて、オーストラリアやアメリカの少年たちとの交流の場が持たれるようになりました。こうして、ヴァイニング夫人の指導によって、皇太子明仁様は堂々と世界各国の首脳と英語で会話を交わし、日本と諸外国との架け橋的な役割を果たすことができるようになった訳です。
昭和天皇は、ヴァイニング夫人を日本に招待したことについて、こう述べられました。
「私が生涯、決断したことで、一番賢明な決断だと思っているのは、ヴァイニング夫人を日本に呼んだことです。」
確かに、ヴァイニング夫人の功績は大きいかも知れませんが、明仁様が宮内省の古いしきたりを破り、勇気をもって新しい世界に挑戦されたことも非常に重要な意味を持っています。
私たち人間は、新しいものを得るためには、まず古いものを捨てなければならないことがあります。
「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ人への手紙4章22―24節)。
あなたも勇気をもって、新しい人生のスタートを切ってみませんか。